夕陽の思い出
中学3年の文化祭の頃、放課後に遅くまで残って準備に一生懸命だったとき、友達と何気なく空を見上げた。そこには夕陽で染まった空と雲。そして、その雲の一部に虹が架かっている不思議な光景があった。「すごいなぁ・・・」と友達と口をそろえてつぶやいた。その時、きっとこの瞬間の光景は一生忘れないかもしれない、とふと思った。その友達とはもう音信不通だが、もちろん20年たった今でも、その光景ははっきりと覚えている。
アメリカのホテルに着いてほっとして、ホテル向かいのショッピングセンターに出かけ、やっとの思いで頼めたピザが焼けるのを待っている間、外で(-。-)y-0?氈@
広島県 昭仁
 故郷島根県の高校時代の頃、僕は進路に悩んでいた。周りはきっぱりした的を持っていて、そこに学習という矢をぱんぱん放つように、受験勉強ってのにのめりこんでいった。その頃からか、僕は、下校時になると夕陽を眺めながら帰っていた。毎日、いつまでったてもきっぱりいけない自分に腹が立って、ぐるぐる回ってるだけで何も進んでなっかた。けど、真夏の下校時の燃え上がる夕陽が、田園の平野に沈んでいくのを見て、初めて無意識のうちに涙が出てきた。「俺は何やってんだ」って。それから、自分の中で何かがはじけて、とにかく走ってみようって思えた。 きっと、あの頃の夕陽も、これから観る夕陽も、僕を浄化して背中を押してくれるだろう。  あ、ちなみに第一志望の大学に受かりました。御蔭さまで。

名古屋の夕陽があれば、それで満足女。そこで、ハンバーガーショップのマックと夕陽の話し、マックの創業者のマック兄弟の持ち帰りハンバーガーが売れ始めの頃。納品業者(今のマックオーナー)が営業エリアの拡大を持ちかけたところマック兄弟『今以上に忙しくなったら私は家のテラスの椅子にかけ、夕陽が見れなくなってしまう』といって、当時でも巨額な営業権を譲渡したそうです。しかし、その後のマックのオーナーは当時の営業権の何万倍の富みと超多忙の暮らしとのことです。一方、健在のマック兄弟は何ら悔いることなく、アメリカの片田舎で夕陽をみているそうです。

昔、付き合ってる人にプロポーズされた。凄く大きくて赤い夕日だったのを覚えています。

6年ほど前結婚前でしたが、女友達と男友達とよくドライブしてました。ほんとに車が大好きで県外なんて日帰りドライブしてあそんでました。よく後先考えず、夕日に向かってゴー!!なんて行って高速とばしてたわいもない馬鹿話してたっけ・・。今はそれぞれ結婚してますが、今思うといい友達でした。皆あの時みた夕日は覚えているかな??長崎の野母崎の夕日サイコーでした。旦那にもおしえられないくらいほど、もったいないくらいの夕日でした。

夕陽とは、1999年12月31日の夕陽。ミレニアム夕陽。
恋に破れて佇む中に落ち行く夕陽。3:00ごろから海を眺めていて年最後の夕陽・釣り舟が「ポンポン」消えていく。
4:30日没  大きく輝いて沈んでいった。来年は恋がしたいと思いつつ。
20世紀最後には2人で と 思いつつ

ちょうど一年前の小学校の頃。運動場のはしっぽにある大きな土管に友達と『将来の事』や『恋愛』や『人間関係』…日が暮れるまで、いっぱいいっぱい話した事がありました。
今は中学校で、相変わらずその友達とベランダでよく語ります。
夕陽は時を止めてくれる様で大好きですね。

山あいの町から松江市に引っ越して半年、この間宍道湖の向こうに沈む大きな夕日を見たとき、なんだか少し悲しくなってしまいました、これも夕日の持つ不思議な力なのでしょうか「夕日は人を切なくさせる」?

1971年6月15日、ぼくは10万円をポケットに世界一周の旅にでました。10万円では世界一周はできません。アメリカ、フランスなどでガーディナー(庭師)やぶどう狩りなどをしてお金を貯め旅を続けました。アメリカ、欧州、中東、そして1973年1月インドに入りました。ぼくは長旅で疲れはてお釈迦様が法華経を説いたお寺に一月だけお世話になることにしました。その時お坊さんから聞いたお話です。
人生に疲れ果てた母親が子供の手を引いて夕陽に向かいトコトコと歩いていたそうです。母親は子供を道ずれに死のうと思っていました。その時、子供が母親の手を引いて「お母さん、夕陽がきれいだねぇ」と言ったそうです。母親は子供の言ったことを聞き、はっと我に帰り地平線に沈もうとしている夕陽をじっと眺めて、「私はなんて馬鹿なことを考えていたんだ。この子ともう一度人生をやり直そう」と決心して心中を止めたとか。
こんな夕陽の写真を撮るのがぼくの夢です。

中学生のころ、みんなで近くのマンションの屋上に行って「もうすぐ卒業やなぁ」って話をしながら夕陽を見てました。あの夕陽はとてもきれいでした。ぼくの大事な青春の1ページです。

子供の頃田舎に住んでおり、山の上の中学校から流れてくる音楽(シューベルトのセレナーデ、ドボルザークの家路、喜太郎etc)がとてもきれいで、遊びや学校から帰るとき友達と別れた後、山に映る夕焼けを眺めながら聞き入っていました(小学校から流れてくる“わが母の教えたまいし歌”も涙が出るほど美しかった)。特に、初冬の寂しい空気とススキが風でゆれる中での夕日はとても懐かしいです。

晩秋、吉野から飛鳥への山を歩いた日の夕暮れ、栢森、稲渕と道をいそいで高松塚への小さな峠を越えたとき、刈り取られた稲藁を焼くあわい煙の向こうに、二上山へ連なる山波に沈もうとする夕日を見たことがあります。あれから数年、山から飛鳥へ下る道をとるたびに、そのときの風景に今日は出会えるかと思ったことか・・。今も果せない願いです。

私の高校時代の事です。高校3年生の卒業式が終わり、部活で謝恩会をした後、学校を後にした時、校庭の端まで来ると、真っ赤な大きな夕日が二上山の向こうに沈んでいくところでした。校舎も赤々と燃え、思わず手を合わせて拝みました。そして、校舎の隅から私をじっと見つめていた初恋の人が泣き崩れて思いっきり手を振っているのが判った時、私も泣いていたのです。まるでドラマのようですが、この日の夕日は未だに忘れる事が出来ません。

夫の転勤で関西から移り神奈川県大和市に住んでいます,マンションの部屋からちょうど夕陽と富士山が見えます。感動しかなり気に入っていますが,関西に帰りたいです。帰った時,一番に思い出すのがベランダから見ていた、“夕陽”になると思います。

高校時代、放課後は決まって、学校の裏庭に登って夕陽を眺めました。山口県下関市という、本州最西端の町で、日本海に沈む、本州で最も遅い日暮れを見ながら、「この夕陽の沈む水平線の向こう側をどこまでも旅したい」と願いました。そして、大学時代、僕は夕陽を追いかけながら、文字通り世界中を旅しました。いよいよ迎えた就職活動。Uターンするか否かで、迷っています。このまま夕陽を追いかけながら異郷の地に果てるべきか、それとも故郷に舞い戻って、もういちど夕陽を見送る日常を送るべきか。

私は兵庫県西宮市で生まれ育ったもので、夕陽は一年365日夕陽は山に沈んでいました。彼は、大阪府貝塚市出身で夕陽は海に沈むのが最高だといってました。つきあい始めた頃、貝塚港の夕陽を見につれていってもらい、本当に海に沈む夕陽の切ないほどの美しさを教えてもらいました。
その彼は、現在の夫です。そして、結婚式は、夕陽が綺麗に見えるホテル西長門リゾートを選びました。

小学校の頃、夕焼け空の移りゆくたかだか20分ほどを、日記に書き、それが随分先生に誉められたことです!みんなの前で、日記を読みました!

宍道湖の夕日。大昔、松江の高校へ通っていたので、遅い帰りには大橋の上から見ることに。最近は島根美術館のロビー(?)からが最高だそうですね。高校にいたころは旧制中学以来の伝統で、宍道湖一週(だいたい70kmくらいあります)のマラソン大会がありました。早いのは昼くらいに帰ってくるのですが、我ら凡人は、後半はひたすら歩いて夕日とともに帰ってくるのでした。

鳥取市の砂丘で夕日をみたときは感動しました。まるでアラブかどこかの砂漠のようで、とっても感無量でした。当時家族と一緒だったのですが、なぜかそれから全員のこころがとってもやさしくなったようなきがします。

育ったところが山あいの地域のため、夕日が沈むとあたりは真っ暗で、昔はとっても恐かったです。太陽が沈みきらないうちに家に入ろうと、横目で夕日を見ながら走って家に帰っていました。

丘の上の寺の鐘楼がすっぽりと入る大きな赤い夕陽を、未だに誰も信じてくれないけれど、今までで一番大きかった。

小学校の頃、お菓子を買いたくて母親の財布から黙って5百円抜き取ったのがばれて、家を飛び出し、学校のグランドの木の陰に隠れて見ていた夕陽が、切ないぐらいきれいだったのをいまだに覚えています。

夕日は私の中学時代の象徴です。なぜか部活が終わってへとへとになりながら自転車をこいでいると、むちゃくちゃ大きな夕日がめらめら燃えてるんですよね。部活で怒られた日や、好きなこの事でなやんだ日、テストの結果がよくなかった日など、帰りの自転車を止めて夕日を見たものです。

夕陽の思い出を募集しています。
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