台湾「國楽団」がやってくる

2007年10月5日号

白鳥正夫

台湾の伝統楽器のオーケストラ「高雄市立國楽団」が初めて来日公演します。関西では10月24日、大阪国際交流センターで開演します。この公演を企画し、楽団を招致したのが石川県在住の台湾人歌手、寒雲(かんうん)さんです。生まれ育った台湾と、定住して22年の日本との文化交流に役立てたいとの思いで、2005年に「台北市立國楽団」を招聘したことが、今回の公演につながりました。「高雄市立國楽団」の公演内容とともに、「片道の人生だから夢を追い続けたい」という寒雲さんの心意気を紹介します。


台湾「高雄市立國楽団」


二胡中心に55人編成の楽団


歌手の寒雲さん

「高雄市立國楽団」は、1983年に南台湾初の専業楽団として創立されました。台湾の伝統的な精神を受け継ぎつつも新しい西洋音楽とも協奏し、現代国楽の開拓を目指しています。国内だけでなく、中国をはじめアメリカやイタリア、スイスなど海外13カ国で演奏公演を行ない、高い評価を得ています。しかしこれまで来日の機会はありませんでした。

楽団は55人編成で来日します。団長の林一鳳さんは、国立台湾芸術大学出身の演奏家で、今年6月に就任したばかりの女性です。指揮者の郭哲誠さんも国立台湾芸術大学出身で、現在南台湾で最も注目される音楽家の一人です。そして特別ゲストの林耕樺さんは「明心筝楽団」を創立した筝楽の第一人者です。

楽器は二胡中心に、琵琶や古筝、笙、揚琴、笛、太鼓、チェロなどで構成されています。大阪での演奏曲は、台湾民謡狂想曲や台湾民謡のメドレーをはじめ台湾で愛唱されている「桃の花が咲く」や「春はまためぐる」などのほか、日本組曲や「上を向いて歩こう」を予定しています。また寒雲さんがテレサテン・メドレーや「風の盆恋歌」などをオーケストラの演奏で独唱します。

寒雲さんは石川県白山市に住んでいます。私が朝日新聞金沢支局に在任していた約15年前に知ったのですが、その後何度かお会いし、時折り電話をいただいていました。2005年3月、久しぶりに封書が届いた文面には、日本で生きる台湾歌手として自分にやるべきことを問い、祖国の楽団を招くことにたどり着いた経緯が綴られていました。そして「片道の人生だから、戻ることができないからこそ、精一杯に生きたい」と書かれていました。


団長の林一鳳さん

この時の「台北市立國楽団」は、地元の石川県と富山、兵庫、東京で6公演を実施しました。寒雲さんは共演するとともに、会場運営やチケット販売、ホテルの手配、楽器の輸送などの裏方までこなしたのでした。

私にとって寒雲さんを応援できることは、観客の一人になることでした。最初の尼崎と最終の東京公演にも出向きました。二胡のすばらしい合奏、そして主役の寒雲さんの澄んだ美しい歌声に感動しました。

フィナーレで舞台に立った寒雲さんはマイクを手に「皆さんありがとう。2年かかって、やっとコンサートが実現できました。感謝、感激、感動です。台湾のすばらしい文化を皆さんにお届けできうれしいです。本日で日本公演がすべて終わりましたが、またお会いすることをお約束します」。そして声をふりしぼって「またお会いしましょう」と涙ながらに結んだのです。

骨休めの来日が人生の岐路に


指揮者の郭哲誠さん

そして2007年秋、約束どおり寒雲さんの熱い思いによって、今度は「高雄市立國楽団」来日の道が開かれたのです。寒雲さんは1955年、台北で生まれました。本名は廖漢華(リャオハンファ)で、寒雲はペンネームであり、後に芸名となりました。幼い頃から詩を書くのが好きで、雲に乗って世界旅行を夢見たのと、大きくて動かない雲から連想して名づけたと言います。

両親とも京劇の役者でした。その母が大病したこともあって生活は苦しく、暮らしを助けようと19歳で歌手活動を始めました。もともと音感が優れている上、どんな歌でもすぐマスターできました。日本のヒット曲を中国語や台湾語で歌ったりもしました。仕事が入れば国内外どこへでも行ったのです。


特別ゲストの林耕樺さん

こうした行動力もあって、シンガポールやマレーシアのトップバンド「B.D.B」の協力を得ることができ、1985年には自身の作詞作曲によるオリジナルアルバム『心海(しんはい)』を発表。一時はテレビやラジオなどに取り上げられ脚光を浴びましたが、それも束の間で、アイドル歌手の台頭により行き詰まったのです。せめてもの救いは、それまでの10年間で弟妹たちを大学へ進学させることが出来たことぐらいだと苦笑します。

友人の勧めもあって骨休めに訪れた日本が、寒雲さんにとって人生の大きな岐路になりました。北陸の温泉地でホテルのショーに出演したのをきっかけに、日本人と恋をしました。そして結婚、出産し歌手をやめました。ところが日本語が十分できないこともあり、夫の家族とうまくいかず、5年で破局となってしまいました。

「片道の人生」は始まったのです。そう自分に言い聞かせたそうです。幼い子を連れて本国にも帰れず、昼間は和菓子屋の配送の仕事を、夜も宴会で歌って働きました。「どうにか食べてゆくことはできたけど、精神的にはつらい日々でした。何度も子どもと一緒に死のうと思った」。

失意の寒雲さんに手を差し伸べたのが片山津温泉のホテルの女将でした。「あなたはあなたの人生を送らなくてはダメですよ。あなたは歌手だから、まず日本語をちゃんと勉強しなさい」と温かい励ましを受けました。このホテルで3年半働き、昼間に日本語を勉強することができたのです。

自分の心境を綴り新曲の作詞

やがて歌手として自立の道を歩み始め、1992年に『いのちの海峡』『ふれあい酒場』(いずれも大竹敏雄作詞、乙田修三作曲)を発表し、日本で再デビューを果たします。さらに1996年には自身の作詞作曲によるアルバム『思郷』を出し、日本に来て初めてのリサイタルも開き、飛躍の一歩を踏み出したのです。


「台北市立國楽団」
東京公演で共演する寒雲さん
(2005年10月)

自分と子どものためにがむしゃらに生きてきて、日本での生活も軌道に乗ってきました。ところが1999年9月、台湾で大地震が起こりました。CDの売り上げやコンサートのギャラを母国の震源地救済活動会へ寄付しました。そうした時期、小さな新聞記事が目に止まったのです。小松市の男性が、救助犬を連れて台湾へ出かけ救援活動をしたという内容でした。

寒雲さんはその男性に会いに行きました。犬の訓練士でした。話を伺うと「こういう時にしか社会に役立てないし、自分にやれることをやっただけです」とさりげなく答えたそうです。目からうろこが落ちた思いがし、歌手としての自分にやれることはやろうと決意したのです。

SARS騒動でホテルへ招待


和服に着替え
「風の盆恋歌」を熱唱する寒雲さん
(2005年10月)

寒雲さんの名前を全国に知らしめた事件があります。2003年5月の新型肺炎(SARS)騒動です。感染した台湾医師が香川県の小豆島のホテルに泊まったため、ホテルのキャンセルが相次ぎました。予約客のキャンセルだけでも約2000人に達し、風評被害で苦境に陥ったのです。

寒雲さんは私財200万円を投じて全国から170人を無料宿泊招待し、歌も披露しました。「台湾人として申し訳ない気持ちでした。この騒ぎで台湾人の私も仕事をキャンセルされ、ホテルはもっとつらいことがよく理解できました」。私も新聞で知り、連絡を取ったことを思い出します。「売名行為だとも言われましたが、傍観できなかったのです」。電話の声は湿りがちでした。

しかし彼女の支援は全国的な話題となり、観光客呼び戻しの起爆剤になりました。その1年後、元気を取り戻した小豆島のホテルでは、寒雲さんと全国から100人を無料招待しました。寒雲さんの歌声が再び宴会場に響いたのでした。

台湾の震災救済活動から向けられた社会への目は、交通遺児や親のいない子どもたちへの教育資金へ、さらには中越地震被災者復興へと続きます。この間、2002年には、尊敬する谷村新司の作品『夜顔』や『棘』など4曲をナンバーに入れた全8曲のアルバムを発売するなどの仕事にも恵まれました。


「台北市立國楽団」
東京公演の楽屋で
花束を贈呈された寒雲さん
(2005年10月)

一方、SARS騒動の続く2003年4月に台湾に出向きました。コンサートで母国の人たちに、自分のアルバム曲『夜顔』や『レストランの片隅で』などを披露しました。また翌年4月には台湾・台北市伝統芸術祭のアジア筝楽演奏会に招かれ、琴の調べに合わせて『竹田の子守歌』などを歌ったそうです。

昨年には、台湾の子供京劇団を招いています。劇団の師匠であり、母親でもある人間国宝の廖瓊枝(リャオ・キイン・キ)さんも来日しました。寒雲さんの誇りである母親と台湾オペラを日本で披露するのが夢だったのです。

寒雲さんの夢は、祖国と日本、世界への文化交流に向けられています。祖国を捨てて歯を食いしばって生きてきた「片道の人生」は、祖国と日本を結ぶ文化交流の道へと歩みを続けているのです。夢中で日台を往復する彼女が国際文化交流は、アジアの心の再認識を呼び起こすものです。文化はモノに宿るのでなく、人に宿ることを強く感じます。

なお「高雄市立國楽団」の大阪公演は、10月24日午後7時開演(開場午後6時半)です。S席5000円、A席4000円(当日500円増)。お問い合わせは、寒雲プロジェクト(090−3768−4313)へ。


しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

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定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
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定価:本体1,500円+税
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内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
内容:「本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、実地踏査にもとづいて報告されている」と山折哲雄先生が序文を寄せている。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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