ロシアの美術紀行

2006年11月5日号

白鳥正夫


エルミタージュ美術館全景

日本に居ながらでも、海外有名美術館の名品を見ることができます。しかし現地でその地の歴史や街の景色に触れながら鑑賞できればそれに超したことがありません。日露国交回復50周年の記念にあたる年に、ロシアの二大美術館めぐりを中心にした旅を楽しんでまいりました。大英博物館、ルーブル美術館と並び世界の三大博物館と言われるエルミタージュ美術館と、この春に大阪で名作を見ることができたプーシキン美術館は、一度は訪ねてみたいと願い続けておりました。

絵になるエルミタージュの姿

サンクトペテルブルグは、街なかをネヴァ河がゆったりと流れ、「北のベニス」とも呼ばれる美しい土地でした。約300年前、ピョートル大帝によって築かれた比較的新しい都のあった所ですが、革命や戦争の悲しい歴史の中で、その地名をサンクトペテルブルグからペトログラード、レニングラード、そして由緒ある元の地名に戻ったのです。


日本人観光客が目立つエルミタージュ美術館(石崎勝義氏写す)

街にはエルミタージュ美術館をはじめスパス・ナ・クローヴィ聖堂(血の教会)、ペトロパブロフスク要塞、スモーリヌィ修道院、イサク聖堂などすばらしい建物があり、これらの歴史地区と建物群は世界遺産に登録されています。

エルミタージュ美術館は、歴代皇帝の居住地であり、この宮殿が美術館となるきっかけになったのは、18世紀半ば、女帝のエカテリーナ2世がベルリンの画商から220点ほどの絵画を買い入れたことに始まります。フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」という名称もそれに由来すると思われます。女帝の「名画を鑑賞しているのは私とネズミだけ」といった言葉が残っているほどです。

以来、王家の収集品は、ナポレオン軍を撃退してからはフランスのほか、オランダ、スペイン、イタリアからも買い増したのです。1917年のロシア革命後には、貴族や富豪の持っていた収集品も没収し美術館の所蔵品としました。


エルミタージュ美術館のベランダでは清掃作業も(石崎勝義氏写す)

現在、エルミタージュ美術館は、冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心に小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場の5つの建物で構成され、400を超える展示室があり、所蔵作品は300万点にも及ぶといいます。本来ならここだけで十分すぎる美の殿堂なのです。

私がエルミタージュの所蔵品を目にしたのは1995年です。今は閉館した東京・池袋の東武美術館で開催されていた「19−20世紀フランス絵画」でした。カミューユ・コローやジャン=フランソワ・ミレーなどの風景画、印象派のクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、ピエール=オーギュスト・ルノアールなどの作品を目にしたのです。

東武美術館では5年にわたってエルミタージュ美術館展を系統的に紹介する展覧会を開き、「17世紀オランダ・フランドル絵画」(1992年)「イタリア・ルネサンス・バロック絵画」(1993年)「フランス バロック・ロココ絵画、に続いて、1996年には「16−19世紀スペイン絵画」を開催しています。

近年もテーマを設けての展覧会が各地で開かれ、12月24日まで東京都美術館で「都市と人々」のテーマのもとに「大エルミタージュ美術館展」が開催中で、その後来春には京都市美術館でも開かれます。


アンリ・マティス「ダンス」1910年

豪華な噴水のあるピョートル大帝の夏の宮殿「ペテルゴフ大宮殿」(国立新美術館提供)

この展覧会では、モネ「白い睡蓮」「庭の女」のカスパー・ダーヴィド・フリードリヒの「港の夜」、ポール・ゴーギャンの「実を持つ女」など17−20世紀までのフランスの絵画およびオランダ・フランドルの絵画80点が出品されます。

驚愕すべき帝政ロシアの権力

エルミタージュ美術館はネヴァ河に沿って立地し、川面に淡い緑と白い壁面を映し建物が絵になる美しさです。河側から入館すると、白い大理石の階段に赤いカーペットが敷かれています。階段を上り詰めた踊り場では花崗岩の一枚岩の柱が並んでいます。「大使の階段」とも呼ばれていた所です。これは各国の大使がこの階段から昇り、皇帝のもとに赴いたことで名付けられています。

まず「将軍の間」や「ピョートル大帝の間」「紋章の間」「1812年の祖国戦争の画廊」を抜け、「玉座の間」に入りました。ここは冬宮の公式の広間で、儀式が行われた重要な所です。白い大理石と金の装飾に囲まれ、赤いパネルを背にした玉座と双頭のワシの紋章が印象的です。

ここから小エルミタージュの「バヴィリオリンの間」に進みました。古代ローマとオリエントが融合したような空間で、床に八角形のモザイクがはめ込まれています。さらに「孔雀の時計」と呼ばれるカラクリ時計が設置されています。18世紀後半にイギリスで製造され、ネジを巻くと静かな音楽の旋律が響き、雌鳥がいななき、フクロウが瞬きをし、孔雀が羽を広げるといいます。


プーシキン美術館全景

旧エルミタージュに移ると、13−16世紀のイタリアルネッサンス美術が飛び込んできます。しかもレオナルド・ダ・ヴィンチの名作「リッタの聖母」があり、ラファエロの「コネスタービレの聖母」などが迫ってきます。新エルミタージュでは、ルーベンスの「バッカス」も圧巻でした。

丹念に見ていると時間が足りず、冬宮3階に移動しました。ここにはお目当ての19−20世紀のヨーロッパ美術があります。セザンヌ、モネ、ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、そしてマティス、ピカソと、これでもかこれでもかと名画のオンパレードです。

中でもマティスの代表作「ダンス」には足を止めました。裸体の朱と空の青、地面の緑という極めて少ない色彩で躍動感あふれる表現です。セザンヌの「タバコを呑む男」や、ゴッホの「アルルの女」、ゴーギャンの「実を持つ女」なども強烈でした。日本の美術館とは雲泥の存在感に圧倒されました。この美術館だけの鑑賞ツアーに再訪したいと思ったほどです。


プーシキン美術館の館内には名画が並ぶ

エルミタージュ美術館鑑賞に前後して、ピョートル大帝夏の宮殿や、郊外にあるエカテリーナ宮殿も見学しました。ここは大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見し、今春のロシア・サミットでレセプションが催された所です。金箔に輝く宮殿などロシア・バロック様式の豪壮華麗さを確認すると同時に、一方でロシア帝政の権力の横暴ぶりを実感したのでした。同行した朝日新聞時代の先輩がしきりに口にしていた「これでは革命が起こるのも当然だ」に同感したものです。

プーシキンで「金魚」と再会

ロシアの美術館といえば、サンクト・ペテルブルクのエルミタージュ美術館があまりにも有名ですが、モスクワのプーシキン美術館も、それと並ぶナシュナルミュージアムです。これまでまとまった海外出展をしなかったため、知られていませんでしたが、昨秋から今春にかけ東京都美術館と大阪の国立国際美術館でその所蔵品の一端が展示され、格調の高さに驚いていました。


アンリ・マティス「金魚」1912年

プーシキン美術館はクレムリンの赤の広場から歩いて30分足らず行くことができました。壮麗な外観を誇る名建築に一大コレクションが詰まっているのです。1912年にモスクワ大学付属の美術館を公共化させる目的で開設されたといいます。1937年にモスクワ出身の詩人プーシキンの名前を冠して改称されたのです。

シチューキン(1854−1936)とモロゾフ(1871−1921)の2人の実業家は、19世紀末から第一次世界大戦までの早い時期に短期間で精力的にフランス近代絵画を集めたのが特徴です。当時認められたばかりの印象派に端を発し、マティスやピカソなど一般に評価の定まっていない芸術家たちの作品も購入するなど、優れた審美眼を発揮し、後世になって質の高いコレクションとして、世界的な評価を得たのです。

2人の収集したフランス印象派と後期印象派の優れたコレクションはロシア革命後、国有化され近代西欧美術館に所蔵されていましたが、1940年代になって閉館となり、エルミタージュとともにプーシキンの両美術館に分割所蔵されたのでした。

重厚な建物を入ると、博物館を思わせる彫刻が威風堂々と展示され、入り口をはさんで2、3階に古典絵画や版画、写真に至るまで多種多様な作品が所狭しと並んでいます。所蔵品は古代エジプト・メソポタミアやギリシャ・ローマ美術、ルネサンスからヨーロッパ絵画、東洋美術など50万点に及ぶそうです。


ピエール=オーギュスト・ルノワール「黒い服の娘たち」1880-82年

日本で見た展覧会の作品に再会したいと探したのですが、フランス印象派などの作品は別棟の新館にあるとのことでした。新館は本館のチケット(300ルーブル、日本円で1500円)で入館できました。日本で展示されたのは50点でしたが、本拠地とあって、3階まで数多くの名品が展示されていました。日本で図録の表紙になったマティスの「金魚」はやはり目玉としての光彩を放っていました。テーブルに置かれた鉢の中で泳ぐ金魚の構図ですが、色調の妙は見飽きないものがありました。

セザンヌの「池にかかる橋」は、木々が豊かに茂る森のなか、木製の橋が池にかかっていて、池の水面は水鏡となって木々を映しています。絵具を斜め方向に塗り、森の描き方が個性的です。ゴッホの「刑務所の中庭」も日本に出品された作品です。死の5カ月前の作品で、高いレンガ壁で囲まれた刑務所の一角を描いています。受刑者たちが輪をつくって歩いている様子は、ゴッホの心象風景を垣間見る思いがして釘付けになりました。


まるで美術館のような華麗な装飾のある地下鉄ホーム(石崎勝義氏写す)

日本でお会いしたイーダ・ボナミ副館長とは再会できませんでしたが「モスクワに来ればもっと多くの作品を見ていただけます」の言葉が思い起こされました。世界遺産のクレムリンでは「武器庫」美術館や国立歴史博物館も見学しましたが、紙数が足りません。ただ街中の地下鉄環状線のホームでは競い合うように装飾が施されていて、まるで美術館めぐりのような楽しさがありました。

帰国の機内で久しぶりに目にした朝日新聞に有名美術館の分館ブームの記事が掲載されていました。そこにはエルミタージュ美術館の米ラスベガスとアムステルダムへの進出計画が報じられていました。貴重な所蔵品の国際展開に驚くとともに、豊富過ぎる所蔵品の公開に納得したのでした。


しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
第一章 いま問われる、真の豊かさ
第二章 「文化」のある風景と、未来への試み
第三章 夢実現のための「第二の人生」へ
第四章 「文化」は人が育み、人に宿る

本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、きめ細かい実地踏査にもとづいていくつも報告されている。それらはどれをとっても、さまざまな可能性を含む魅力ある「文化のある風景」である。
(宗教学者。山折哲雄さんの序文より)
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
新刊
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて
 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

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三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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