実現した藤田嗣治展

2006年6月20日号

白鳥正夫


京都国立近代美術館での開会式

待望久しい藤田嗣治展が実現しました。藤田嗣治(1886‐1968)の歿後38年、生誕120年を期して全画業を回顧する画期的なものです。31万人が入館した東京国立近代美術館を受け、京都国立近代美術館7月23日まで開かれています。その後、広島県立美術館(8月3日〜10月9日)でも開催されます。朝日新聞社時代の6年前、藤田嗣治展を企画し、無謀にも著作権協会を通じ君代夫人に打診したことがありましたが、了解が得られず「著作権の壁」に阻まれた苦い思い出もあります。やっと実現した展覧会で、約100点の代表作を感慨深く鑑賞することができました。

パリで評価得た乳白色の裸婦


「アトリエの自画像」
1926年、リヨン美術館
(C)Kimiyo Foujita &
SPADA,Tokyo,2005

私は東京会場の開幕3日目に見ましたが、京都会場の内覧会にも足を運びじっくり鑑賞しました。展覧会は3章に分かれ、まず第1章が「エコール・ド・パリ時代」です。藤田が初めてフランスへ渡ったのは1913年でした。パリの地を踏んでから、ブラジルに渡るまでの作品を展示しています。

ただ一点、回顧展につきものの自画像は1910年の作品です。この年、東京美術学校を出ており、卒業制作に描かれた自画像です。藤田は多くの自画像を残しています。1923年の「室内、妻と私」や1926年の「アトリエの自画像」や1929年の「自画像」では、おかっぱ頭にロイド眼鏡とちょび髭、見るからに独特な風貌そのものが軽いタッチで仕上げられています。いずれも大好きな猫をはべらせ得意満面です。

同じように東京美術学校を卒業し、パリを愛した夭折の佐伯祐三も多くの自画像を描いています。2005年11月に見た展覧会では何点も出品されていましたが、その変化も興味深いものです。東京美術大学(東京藝術大学)では卒業時に義務付けており、「天才画家たちの自画像展」も面白いかも知れないと思いました。


「カフェにて」1949−63年、個人蔵
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005

「タピスリーの裸婦」 1923年、京都国立近代美術館
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005
第1章では、やはり「乳白色の肌」を持つ裸婦像が出色です。1922年制作の「横たわる裸婦」(ニーム美術館)をはじめ、いずれも翌年の「裸婦」(フォール美術館)「五人の裸婦」(東京近代美術館)「タピスリーの女」(京都近代美術館)、1927年の「横たわる裸婦」(茨城県近代美術館)、1929年の「二人の友達」(川村記念美術館)などが、美の饗宴のように並びます。

2002年11月、講談社から『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』が刊行され、「せめて画集ででも」と、2万1000円の豪華本を買い求めましたが、やはり実物の迫力は格別です。この細く優美な線と柔らかな「乳白色の肌」は、パリで高く評価され、藤田は一躍パリの寵児となったのです。藤田がフジタとなり、その名を高らしめたのもうなずけます。

裸婦もいいが、私は「アンナ・ド・ノアイユの肖像」(1926年頃、川村記念美術館)に驚きました。未完の肖像画ながら、伯爵夫人の注文だったといわれる作品です。近づいてみるとレースの微細な線描は、神業としかいいようがありません。

画家運命を変えた戦争記録画

第2章は「中南米そして日本」です。1930年代に入って、藤田は裸婦や猫など繊細な線描の作品から、より写実的な作品へと移行したのでした。藤田は1931年にパリを離れ、ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアを訪ね、メキシコを経由してアメリカに入り、1933年に日本に帰国することになります。

この中南米の旅を通じ、新しい絵画へと展開し、その写実性が次第に鮮明になります。ブラジル滞在時にサーカスの一団を描いた一連の作品は、「乳白色の肌」を描いた同じ画家かと疑いたくなるほどです。


「五人の裸婦」1923年、東京国立近代美術館
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005
1932年の「町芸人」「カーナバルの後」「室内の女二人」などで、いずれも財団法人平野政吉美術館所蔵の作品となっています。エコール・ド・パリ時代とは打って変わって、黒や白を基調とした表現から色彩豊かになります。また人やものの描写は重量感を増しています。

2004年、大阪・なんば高島屋で開かれていた「近代日本の絵画名品展」に出品されていた大作「大地」は1934年、藤田48歳の作でした。この時、私はあらためてその非凡さに圧倒されたものでした。


「裸婦」1923年、フォール美術館
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005
「大地」は幅が9メートル68センチ、高さも約2メートル45センチありました。もともと幅15メートルを超す大壁画として制作され、東京・銀座の聖書館ビル(現在の教文館ビル)内のブラジルコーヒー陳列所に飾られていたといいます。しかし完成して6年後に依頼主が30パーセントを切り取り本国に持ち帰り、残りが広島のウッドワン美術館に所蔵され、出品されたのでした。

この大作について、藤田自身が雑誌『改造』(1936年3月号)に寄稿していて、ブラジルのコーヒー王と在日大使館の依頼で着手し、毎日12時間、約1ヶ月間もかけて仕上げたと記しています。コーヒー農園を背景にリオデジャネイロの町に生きる労働者たちの姿を活写しています。パリからの帰国直前に立ち寄ったブラジルの印象があったと思われます。画面には何と54人の人物と動物15匹を描かれています。それにしても、巨大なカンヴァスに、モデルも下図もなく一気に描き上げたデッサン力には驚嘆させられました。

今回の展覧会に残念ながら「大地」は出品されませんでしたが、特筆すべきことは戦争記録画が5点も展示されています。第二次世界大戦中、戦況が悪化していく中、戦意を高揚させたり、作戦を記録するため従軍画家を戦地に派遣したのです。


「カーナバルの後」1932年、財団法人 平野政吉美術館
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005
藤田が1938年に中国の漢口へ、1940年にはノモンハンの戦争シーンを描くため中国とソ連の国境へ従軍したのでした。敗戦後、美術で戦争に加担したと追及されたのです。画家であることを優先し数多くの戦争画を描いたため責任の矢面に立たされたのです。1949年、藤田は「日本画壇も国際水準に達することを祈る」との有名な言葉を残し、日本を後にしました。そして再び祖国の土を踏むことはなかったのです。

こうした経過を踏まえ「アッツ島玉砕」(1943年)「血戦ガダルカナル」(1944年)「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)を見ると、藤田がどんな心境で描いたのか思いがめぐります。しかし藤田は、愛国心や反戦といった立場より、何より描くことのプロであったと思われます。

最後の第3章は「ふたたびパリへ」です。戦後の1947年、連合軍司令部が1年かけて調査した戦争犯罪者リストを公表し、藤田への戦犯容疑は晴れます。しかし1949年、ニューヨークのブルックリン美術学校の教授として招かれ、日本を離れます。そして再びパリに戻ります。


「礼拝」1962−63年、パリ市立近代美術館
(C)Kimiyo Foujita & SPADA,Tokyo,2005
戦後まもなく「優美神」(1946−48年)や「私の夢」(1947年)など再び裸婦を描いています。この時期の作品には、復活した藤田特有の線描の美しさに写実的な表現が溶け合っているようです。やがてパリでは、一転して子どもたちや動物をモデルにユーモラスな作品を発表します。「二人の祈り」(1952年)や「動物宴」(1949−60年)「校庭」(1956年)「誕生日」(1958年)です。しかし無邪気に見える子供たちの目は笑っていません。祖国から見放された藤田の悲しみと虚無感が表れていたのかもしれません。

さまざまに移ろった作風の仕上げは宗教画でした。藤田は1955年、フランス国籍を取得。さらに59年にはカトリックの洗礼を受け、レオナール・フジタと名乗ります。その後、独自の様式で裸婦、自画像、猫、静物などを描き続けました。この間、私生活でも結婚、離婚を繰り返し、奔放に生きたのでした。

晩年はノートルダム・ド・ラ・ベ礼拝堂の設計と壁画制作に情熱を注ぎ、1968年1月、仏チューリッヒ州立病院で81歳の生涯を閉じました。異国での生活や奇行の数々もあって、藤田の業績は日本で正当な評価を受けなかったといえます。君代夫人は、藤田のやりきれない心情を思いやり、評価されなかった日本での公開を頑なに拒否することになったようです。

伝説の画家の全容を探る機会


2枚並んだ「カフェにて」。色調に微妙な違いも。
私は2000年秋、新世紀にあたって、20世紀が生んだ世界のフジタの全容を――。そんな開催の趣旨を掲げ、君代夫人の著作権を管理している美術著作権協会に展覧会を申し入れました。展覧会話が進展しない中、私どもが君代夫人を説得したいと申し出ましたが、「今は朝日新聞社の方とは会いたくない」とのつれない返事でした。君代夫人に一度も面会がかなわず、私は展覧会計画をあきらめざるをえなかったのです。
まもなく100歳を迎える夫人は夫同様フランス国籍のままです。「藤田を正しく評価しなかったのだから、忘れてほしい」と言い続けてきました。しかし今回実現した背景には、東京国立近代美術館など関係者の努力が報いられたのだと、関係者にあらためて敬意を表したいと思います。

著作権が切れる2019年を待たずに実現したこの展覧会には、パリ時代から戦争記録画も含め晩年にいたるまでの代表作が、日本、フランス、ベルギーから集められており、伝説の画家、藤田の全容を探るまたとない機会といえます。
日本では初公開の作品も「巴里城門」(1914年)など20点あります。さらに1928年にパリで、翌年日本で展示されたあと、行方のわからなかった3メートル四方の大作シリーズ「ライオンのいる構図」の1点が、歴史的文化遺産として、フランスの文化省とエソンヌ県によって修復され、77年ぶりに日本で紹介されています。

最後にこの一点。「カフェにて」(1949−63年)は、この展覧会のポスターのほかチラシ、チケットにも紹介されています。思えばあの豪華画集も飾っていました。きっと君代夫人のお気に入りなのでしょう。というよりパリの日常のカフェに座り憂いの表情を浮かべる女性の姿に、こよなく愛した藤田のパリへの郷愁が投影されていたのもしれません。


しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
第一章 いま問われる、真の豊かさ
第二章 「文化」のある風景と、未来への試み
第三章 夢実現のための「第二の人生」へ
第四章 「文化」は人が育み、人に宿る

本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、きめ細かい実地踏査にもとづいていくつも報告されている。それらはどれをとっても、さまざまな可能性を含む魅力ある「文化のある風景」である。
(宗教学者。山折哲雄さんの序文より)
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
新刊
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて
 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

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