アンコールワット拓本展

2004年1月20日号

白鳥正夫

 世界遺産のアンコール遺跡を実物大で写し取った拓本展を、正月4日、京都文化博物館で見ました。出展されたのは、吹田市在住の道浦摂陵(本名・武さん)が主宰する拓本保存会のメンバーたちの作品です。

 この展覧会の実現の裏には、絵画や写真とも異なる「芸術」の拓本に魅了された人生ドラマがありました。ユネスコが提唱する世界遺産は、地球と人類の過去から引き継がれた宝物であり、今日を生きる私たちが共有し、未来の世代に引き継いでいくものです。その優れた普遍的価値を伝える展覧会は、「文化」を守り、継承していく上で、大いに貢献する活動です。

世界遺産は人類共有の宝物

 私はアンコール遺跡をまだ一度も訪れていませんが、朝日新聞社の企画の仕事を通じ接点があり、深く記憶にとどめることになりました。それは約10年前の1993年にさかのぼります。シルクロード・奈良国際シンポジウムが「アンコール遺跡の保存と救済」をテーマに、東京と奈良で開かれました。私は講師への依頼や会場運営など舞台裏で働いたことがあります。このため文献などを集めにわか勉強をしたのでした。

アンコールワット
バイヨン


 6世紀ごろ、現在のカンボジアの地を中心として、クメール族による仏教・ヒンドゥー教の国が栄え、9世紀にアンコールの地で王都による支配が続きました。15世紀、王朝が衰退すると、クメールの遺産は忘れられた存在となり、ジャングルの中に埋もれました。それが1860年にフランス人に発見され注目されたのです。しかし1970年の内戦以降、遺跡は放置され荒廃しました。シンポはこの大規模な遺跡の救済を日本国民にも広く知ってもらおうとの意図で企画されました。
 その後、1997年末に東京都美術館で、翌年には大阪市立美術館で「アンコールワットとクメール美術の1000年」展(開催館・朝日新聞社主催)が開かれ、私は再びアンコール遺跡に取り組むことになりました。アンコール展にはプノンペン国立博物館やフランスのギメ東洋美術館などから約100点の石像や彫刻、寺院の壁面を飾った浮き彫りなどが集められました。私はこの展覧会を通じ、アンコールに魅せられた道浦さんを知ることになりました。

実物大スケールで写し採る拓本

 道浦さんは、拓本一筋の人生を歩んでいます。昨年7月、冊子本が送られてきました。米寿記念に生徒たちが、お祝いにまとめた『摂陵 拓本の歩み』です。道浦さんは定年前、老後の楽しみにと、カルチャーセンターで拓本を学び始めました。先生は考古学で有名な故末永雅雄博士で、その神髄の深さに虜になってしまったといいます。
 道浦さんは定年後、どうせやるなら本場でと山東省に約二カ月間留学したこともあります。拓本と関わって40年、大阪府下の公民館活動として各地で拓本教室を開設し、生徒は100人余りいます。10年前に一門を挙げて取り組んだのがアンコール・ワット遺跡の採拓でした。道浦さんらの熱意に、カンボジア政府は1994年に採拓を許可しました。
 私が道浦さんと出会ったのは、「アンコール展」の大阪開催の前でした。「ぜひ拓本も同時展示し、遺跡の実物大のスケールと魅力を伝えたい」との申し出がありました。併設展の方向で話が進んでいましたが、会場の大阪市美の改装で場所が取れず、市内の法楽寺に移して開いた経緯があります。


「アンコールワット拓本展」のチラシ


 何しろ道浦さんらはカンボジア政府の計らいで1998年当時、三回にわたって延べ80人が現地を訪れ、延長1・5キロに及ぶ回廊の壁画彫刻を中心に150点の大型拓本を仕上げていました。道浦さんは「クメール美術のすばらしさとともに、細部まで再現できる拓本技術の高さも見てほしい」と、目を細くしていました。拓本は実際、写真や肉眼でとらえきれない部分まで、立体的に実物大で再現する利点があります。道浦さんが拓本に魅せられる理由もうなずけました。
 道浦さんは、継続的に採拓活動を実施しています。2001年にバンテアイ・クデイ寺院の発掘調査で発見された「千体仏石」も拓本に収められ、今回特別展示されました。昨年2月にはカンボジア・クメールの聖域といわれるクバルスピアンでも、拓本を採る機会を得ています。
 拓本は大阪市立美術館に寄託されていますが、私は1999年に開催しました「シルクロード 三蔵法師の道」展に二点を借り受けて展示しました。翌年には京都精華大学でも拓本展が開かれました。今回の拓本展には、アンコール・ワット第1回廊の浮き彫りを中心に61点が展示されました。

保存修復へ国際的な理解が必要

 歌人・道浦母都子さんの父親でもある道浦さんの並々ならぬ情熱が伝わってきます。道浦さんは拓本を写し取る一方で、作品を見せる機会を設けたいと考えています。今回の拓本展は、京都文化博物館の前に東京の古代オリエント博物館でも開かれました。京都では25日間で約9000人の入場者がありました。最終日に東京会場を訪れた女性客2人が再び京都にも顔を見せたといいます。「もう一度見たくてと、わざわざ関西まで足を運んでくれました」と、道浦さんは感動していました。

ハマヌーン「乳海攪拌」(拓本)
仏足跡(アンコールワット管理事務所)


 アンコール遺跡は現在、日本政府をはじめ世界各地からの支援を受けながら、カンボジアの人々による保存修復の作業が行われています。拓本展会場でも写真パネルなどで、その様子が紹介され、遺跡の現状を理解することができました。
 歴史の中で忘れられ、埋もれていたアンコール遺跡は国境を超え日本市民の心を突き動かしました。ユネスコが提唱する世界遺産に指定され、登録されることは、かけがえのない人類の財産を認知したことに過ぎません。保存へのスタートと言ってもいいと思います。道浦さんは、単にアンコールの魅力を伝えたいということにとどまらず、人類の文化遺産保存への思いが強いことです。「文化」は守ることの大切さを感じさせる拓本展でした。


しらとり・まさお
朝日新聞社大阪企画事業部企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から、現在に至る。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。


新刊
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたち平山郁夫画伯らの文化財保護活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者の「夢しごと」をつづったルポルタージュ。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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