百貨店美術館の支え役

2006年4月5日号

白鳥正夫


慰労会で挨拶する堀尾節治郎さん(大阪市北区のヒルトンホテルで)

今年2月、大阪・梅田のホテルで、ある慰労会がありました。その主人公は大丸本社の営業企画室販売促進部全社文化催事担当マネージャーを務め、昨年末に定年退職された堀尾節治郎さんでした。長くて難しい肩書きはともかく、長年にわたって百貨店美術館の支え役だったのです。私がこの10年余、新聞社の展覧会企画に関わった時期、デパートでの文化催事の浮沈を目の当たりにしてきました。デパートが文化催事から撤退する昨今、ベテランの支え役も退いてしまいました。堀尾さんは全国的に、その「最後の人」だったといえます。堀尾さんの業績を振り返り、あらためて業界の歴史を辿ってみたいと思います。

新聞社と連携、日本独自の方式

デパートの文化催事には古い歴史があります。1904年に東京・日本橋の三越が開店前景気をあおるため、尾形光琳の花鳥画などで「光琳遺作展覧会」を開いたのに始まるとされています。この時代、デパートは舶来文化に触れられる庶民のあこがれの場でした。その後生まれたデパートは、三越を含め高島屋、松坂屋、大丸などいずれも呉服商が前身だったこともあり、文化イメージの高い美術展に着目しました。そもそも呉服の図案が絵柄であり、美術と関連があったのだからうなずけます。


慰労会場に集まった大丸関係者や知人ら

デパートでは展覧会場を上階に設け、観客の買い物を誘う「シャワー効果」を期待し、新聞社と提携しそれなりの効果を上げてきました。デパートにとって文化催事は、戦前から格好の客寄せ策になったのです。戦後は宣伝力のある新聞社との結び付きを一層強めました。

新聞社側からいえば、文化的メセナでイメージアップを図り、新聞販売増にも役立てたい思惑があったのです。新聞社が展覧会を主催するのは、諸外国では珍しいうえ、会場が百貨店というのは日本独特のスタイルです。とはいえ新聞社とデパート連携による、催事場転用の特設会場での文化催事が国公立美術館と並んで親しまれてきたのでした

1980年代に入って、全国的に公立美術館が多数建設され、美術への関心が高まってまいりました。百貨店も重要美術品の保全面から美術館機能を備えるようになったのです。


ベルギーのサンティデスバルドにポール・デルボー画伯を訪ね、談笑する堀尾さん(1989年4月、堀尾さん提供)

しかし近年、撤退を余儀なくされているのは、1990年代のバブル経済の崩壊と小売業界の熾烈な競争で本業の業績が悪化したためです。1999年に東京・池袋のセゾン美術館が24年の歴史に幕を降ろしたのでした。その後は新宿の三越、伊勢丹、小田急、池袋の東武美術館と相次いで閉館しました。関西でもナビオ美術館、奈良そごうと続き、近鉄アート館も縮小したのでした。私は10数年間、これらのデパート美術館の大半で仕事をしてきただけに、寂しい限りです。

巨匠と握手、震災でピンチ…

こうした厳しい環境の中、撤退どころか逆の方針を打ち出したのが大丸です。これまで展開していた大阪・梅田をはじめ京都、神戸、東京のほか、2002年5月に心斎橋の催事場をリニュアルし、直営5店に「大丸ミュージアム」を設けたのです。照明や空調、防災設備などを整備しました。さらに2003年には札幌店にホールを設けています。他店の撤退時期こそ、生活者のアートに対する強いニーズに応え、アートを切り札に違いを強調する好機と考えたようです。


20世紀最後の幻想絵画の巨匠の作品を集めた「ポール・デルボー展」(1989年11月、梅田大丸ミュージアムで、堀尾さん提供)

エルミタージュ美術館所蔵の「ロシア宮廷のマイセン磁器展」のため現地で作品調査をする堀尾さん(1995年10月、堀尾さん提供)

この戦略にも裏方で大きな役割を担ったのが堀尾さんでした。1969年に京都店に入社して呉服部で2年間働いた後、宣伝・文化催事・広報の仕事を11年間勤めました。そして1983年、JR大阪駅に梅田店がオープンするのに伴いミュージアム開設準備を経て展覧会の業務にたずさわってきました。この間、博物館学芸員の資格を取得し、1997年に梅田店から本社に異動し大丸全社の文化担当をまかされたのでした。

大丸勤務37年間のほとんどを文化催事の仕事で貫いた堀尾さんは、まさに百貨店美術館の支え役だったのです。慰労会の席上、挨拶に立った堀尾さんはいくつかの思い出を話されました。

美術界との接点は京都時代に始まり、日本画家や陶芸家、学者らとの交流を通じ、次第にのめりこんでいったといいます。当時、国宝や重要文化財など国の指定物件の百貨店への展示も条件付きで認められていて「文化庁に呼び出され厳しい展示指導を受けたり、所蔵先の寺院で借用の際に正座させられたりの体験をしました」と、述懐しています。

梅田店の開設準備からたずさわり、百貨店で初めてのミュージアムの名付け親にもなりました。柿落としの展覧会が「東山魁夷 樹々は語る」展で、画伯の講演会も催し、行列になるほど押し寄せたといいます。開店の年の秋に実施したポール・デルボー展でのご縁で、数年後に巨匠を訪ね面談し握手することができたといいます。巨匠は1994年に亡くなりましたが、「その大きな手のぬくもりは忘れられない」と語っています。


「ヘルムート・ニュートン展」は外国人女性ヌードのポスターやチラシでアピールした

百貨店の美術館にとって、経営者の関心事は入場者数です。堀尾さんは数ある展覧会企画に関わっていますが、もっとも予想外だったのが、スーパーリアリズムの「ドゥエン・ハンソン展」でした。人体直取りの生き写しの樹脂彫刻の作品で、「面白い」と直感し、開催に踏み切ったそうです。それが大当たりで、一日1万人を超えた集客の日もあったといいます。

最大のピンチはやはり1995年の阪神・淡路大震災です。2ヵ月後にスイスの国民的画家「パウル・クレー展」を予定していたのですが、クレー財団から貸し出しをキャンセルされたのです。対応策に苦慮していた時に建物が被災し展覧会ができなくなった兵庫県立美術館の「マグリット展」の代替開催を思い付き、しのいだこともありました。

大丸は「アートする百貨店」へ

文化活動を経営戦略の中に位置付けた大丸では、2002年に「文化催事改革」を実施し、直営店ミュージアム企画をすべて本部に統合したのです。「アートする百貨店」として、アート・プロモーション「アート・ミーツ・アート」を春と秋に実施することにしたのです。最初のファッショナブルな展覧会「ヘルムート・ニュートン展」の新聞広告は、外車にからみつくように身をのけぞらせた外国人女性のヌードでした。社内には異論もあったようですが、当時の奥田社長(現会長)の決断で、主要各紙の夕刊を飾ったのでした。


アート・プロモーションを記念して発行された大丸直営の5つのミュージアムで通用するパスカード

そしてアート・プロモーションをスタートさせた記念にパスカードを発行しています。直営5店の展覧会を期間中、何度でも入場できる特典付きです。さらに展覧会がミュージアム内にとどまらず、百貨店全館への連動も可能な限り実施するという新しい手法も取り入れました。

1993年に朝日新聞社の編集から企画に転じた私にとって、堀尾さんは良き相談相手になりました。学部は違っていましたが同じ大学出身ということもあって、心強い後輩でした。

お陰で大丸5店と系列の地方店で数多くの展覧会企画を推進することになったのです。私が初めて仕立てたのが戦後50年記念の「ヒロシマ21世紀のメッセージ展」でした。ヒロシマの心を21世紀にとの理念はいいのですが、暗くて理屈っぽいというイメージからデパートの催事としては不向きでした。しかし堀尾さんの支援で採用してもらったのです。

「ヒロシマ展」以後も「アプリケ芸術50年 宮脇綾子遺作展」、「古備前を超えて 森陶岳展」などを引き受けていただきました。「山本容子の美術遊園地」は、堀尾さんから企画の提案があり、展覧会に仕立てたのでした。


デザインで画期的な作品を遺した「ウイリアム・モリス展」の入り口(2004年9月、梅田大丸ミュージアム)

おしゃれな「ウイリアム・モリス展」の展示会場

堀尾さんは京都店から梅田店へ、震災後には神戸店の文化催事を兼務し、残り8年は本社で文化戦略推進の先頭に立ってきたのです。とりわけ顧客ニーズの変化に合わせた企画の立案を本社がコントロールし、各店で運営に当たる改革を実施し、他の百貨店が撤退する中で逆シフトを構築したのです。

退職の年には心斎橋そごうの出直し開店対策として、本格的なファインアートの「パリ・モダン展」を開催し、話題づくりと集客に寄与したのでした。退職するまでに堀尾さんは約300件もの展覧会に関わってきました。この仕事を通じ、著名な作家をはじめ作品所蔵家、美術館、画廊の方や、マスコミ、企画、デザイン、印刷会社の数多くの関係者と交流することができたといいます。慰労会の挨拶は「好きなことに取り組め、多くの出会いがあり幸せでした」と結んでいました。

私は2003年に著した『「文化」は生きる「力」だ!』(三五館)の「デパート美術館の逆風」の項で、堀尾さんに取材させていただいたことがあります。この中で「かつて百貨店は庶民のあこがれの場でした。心の豊かさを求められている時代、あらためて情報と文化の発信地であった原点に戻るべきです。むしろファッションとアートを結び付けた文化ニーズにこたえていきたい」と抱負を語っていたことが、強く印象に残っています。

多くの実績を残された百貨店美術館の「最後の支え役」堀尾さんの第二の人生に期待したいものです。


しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて
 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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