アンコール遺跡群の最近事情

2006年3月20日号

白鳥正夫


アンコールトムの南大門入り口に連なる神々と阿修羅の石像

「世界遺産 それは かけがえのない地球の記憶」。TBSの番組は冒頭、こんな字幕から始まります。ユネスコが提唱する世界遺産は、地球と人類の過去から引き継がれた宝物であり、今日を生きる私たちが共有し、未来の世代に引き継いでいくものです。1992年に登録されたカンボジア王国のアンコール遺跡は、世界遺産にふさわしい神秘の文化財でした。その保存と救済を考える国際シンポジウムに関わりながら、未踏の地でしたが、やっと念願かなって2月末から3月初めにかけて訪ねました。アンコール遺跡については、当サイトの2004年1月20号でも取り上げていますが、その最近事情を報告します。

迫力!4面菩薩の「尊顔」が林立

カンボジアへは直行便が無いため、ベトナム・ホーチミンのタンソンニャット空港からベトナム航空で、遺跡のあるシェムリアップに到着しました。道路わきでは屋台や数々の露天が並んでいます。随所に立派な建物が建設中で、そのほとんどがホテルと言うことです。観光ブームにわく遺跡の町は一見して、貧しさと豊かさが混在していました。


南大門にそびえる塔に刻まれた4面観音菩薩

町から遺跡まで7キロ。遺跡に入るには、顔写真付きのパスポート(3日間通用・40ドル)が必要です。入場ゲートを通過し、最初の見学地はアンコールトムの入り口にある南大門でした。この門の入り口両側の橋の欄干にはナーガ(ヘビ神)の胴体を引き合う神々と悪神の阿修羅の石造がそれぞれ54体も連なっていました。もちろんいたるところで欠落していますが、その造形の規模に衝撃を受けました。

塔門の上部には、4面の観音菩薩が彫られています。その顔の長さが3メートルもあるというから驚きです。門はかつて象に乗った貴人が通れるように造られ、中型バスが通れるほどの幅です。アンコールトムは「大きな町」と言う意味で、1辺が3キロの外壁に囲まれ、5つの門があります。この都城は12世紀末から13世紀、ジャヤヴァルマン7世の時に環濠と堀が作られ、現在のような規模になったようです。

その中心がバイヨン寺院で、古代インドの宇宙観による神々の聖域として築造されていました。64メートルの主塔を軸に16もの尖塔がそびえ、それぞれの塔の上には南大門と同じように4面仏の異様な菩薩が笑みをたたえています。何度も写真で見ていましたが、実物を前にすると圧倒的な迫力です。

参道の南北には聖池が配されていた痕跡があります。二重の回廊に囲まれた伽藍は対称形です。外観はシンプルに見えますが、内部の構造は複雑で、回廊の壁面には細やかなレリーフが施されています。


菩薩の「尊顔」が3つ並んで見えるスポットも

第一回廊には、象に乗った軍隊の戦いや行進の姿などが延々と描かれていますが、日常的な庶民の暮らしや貴族の生活も生き生きと取り上げられており、興味が尽きません。当時、チャンパ軍との戦闘場面にも、後方で女性や子どもが料理を作ったり、運んでいる姿も見受けました。

バイヨンの中央祠堂に登ると、どこを見ても菩薩の顔、顔、顔が林立しているのに驚愕します。位置によって3つの菩薩の顔が並んで見える所もあり、開口部をフレーム代わりに見ることができたりと、写真に収まる名場面のオンパレードです。この4面塔は全部で49を数え、5つの門を入れると「尊顔」の数は54の4乗の計算になります。

この観世音菩薩ともいわれる巨大な「尊顔」といえば、東京在住の写真家・BAKU斉藤さんを思い出します。6年間に延べ13回、一年間以上の日数をかけ、54基ある四面塔をすべて撮ったのです。密林の木を切り出して20メートル以上の足場を組み、大型カメラを構えたそうです。私が訪ねた3月でも気温は37度まで上がりました。さぞかし苦しい撮影だったと同情しました。


アンコールワット西参道北側では修復工事も

バイヨン寺院から北方500メートルほど行くと、王宮跡があります。その前の広場には有名な象のテラスがあり、ほぼ等身大の象のレリーフが並びます。王がこのテラスで軍に檄を飛ばし閲兵した姿がしのばれます。王宮への入り口には日本の狛犬に似た2頭の獅子の彫刻があり、石造の遺跡には数々の精巧なレリーフが施され、クメール文化の崇高さに感動します。

動画のように描かれたレリーフ

午後には待望のアンコールワットを訪ねました。外堀をめぐると車窓に美しい5つの塔が見えてきます。近づくにつれ、その雄大さに感嘆します。西参道前に立つと、シンメトリーな造形美に見とれます。その設計や建築はどんな人が手がけたのでしょうか。900年も前に、しかもジャングルの奥地にこんな芸術が創造されたことに畏敬の念を覚えずにいられません。

目を足元に転じると、環濠を渡る西参道の北側部分で工事が行われていました。参道の南側半分は以前フランスによって修復作業が行われたといいます。カンボジアの国家機関とアンコール遺跡国際調査団が共同で行っており、日本人が現場指揮に当たっているそうです。すべて重い石が対象だけに、気の遠くなるような工事に違いないと思われました。


壁面に描かれた女神のレリーフ

アンコールは都市、ワットは寺の意味で、スーリヤヴァルマン2世が12世紀中ごろ、クメール王国の威厳を示すため建設したといいます。西向きに建てており、死後は菩提寺として意味も持たせたようです。参道を進むと、3つの尖塔が見え隠れします。西塔門の破風に施された入念な彫刻を仰ぎ見ながら、門をくぐると消えていた須弥山にたとえられる中央祠堂が徐々に姿を現わします。門を抜けると4本の柱を通して全容が見えるといった具合で、すばらしい造形表現になっているのです。

さらに中央祠堂に向かって参道を進むと左側に沐浴場となっていた聖池があり、水をたたえていました。その水面に映る逆さ尖塔の姿も神秘的です。外観の美しさに見とれながら第一回廊へ。南面東側には「天国と地獄」のレリーフが物語風に展開しています。上から極楽界、裁定を待つ者の世界、そして地獄界の三段に分割され精緻に描かれていました。


第三回廊のある中央祠堂への急な階段

東面南側にはヒンドゥー教の天地創世神話で知られる「乳海攪拌」の説話が50メートルにわたって描かれているのです。大蛇の頭の方を阿修羅、尻尾の方を神々が抱え引っ張り合う構図です。私はこの名場面の拓本を、1999年に開催した「シルクロード 三蔵法師の道」展に借り受け展示したことがあります。

拓本を採ったのは、大阪在住の道浦武さんとその教え子たちです。道浦さんらはカンボジア政府の計らいで三回にわたって、延べ35人が現地を訪れ、延長1・5キロに及ぶ回廊の壁画彫刻を中心に250点もの大型拓本を仕上げたのでした。道浦さんは「クメール美術のすばらしさとともに、細部まで再現できる拓本技術の高さも見てほしい」と目を細めていたのが脳裏に浮かびました。

壁面彫刻は遠近法も取り入れ、回廊を歩きながら眺めていると、まるで動画を見ている感さえあります。このレリーフを見るだけでも丸一日はかかりそうです。それほどにおびただしい浮き彫り芸術に魅了されます。


「女の砦」と呼ばれる美しい赤色砂岩のバンティアイスレイ

ソロバン玉のような連子窓を横目に、第二回廊を通り過ぎ、中央祠堂へ。第三回廊は65段の急な階段を登らなければなりません。傾斜75度は頂上から下を覗けば垂直のようです。登りは下を見ないようにして何とか登れたが、下りは手すりのある南側の階段を下りました。

こんな急傾斜にしたのは多分、限られた人だけしか行けない神聖な場所として造られたと思われます。ここではヴィシュヌ神が降臨し、王と神が一体化する聖域だったのでしょう。今では観光客が所狭しと押しかけていますが、この場所に一人で居ると、さぞかし厳かな気分に浸ることができるのではないでしょうか。

日没を控え、夕陽のアンコールワットを見ようと、プレルーフ寺院に向かいましたが、残念ながら雲にかかってしまいました。遺跡のある一帯は電気がなく、住民らは自転車で帰宅を急いでいました。翌朝には朝日を拝もうと、懐中電灯を手に再び西門をくぐりましたが、こちらも厚い雲にさえぎられました。

この日は、アンコール遺跡群から北東へ約25キロ離れたバンティアイスレイを見学しました。「女の砦」と呼ばれるだけあって、赤色砂岩やレンガで造られた建物には16体の女神像が彫られ、「東洋のモナリザ」との評価もあります。

「かけがえのない人類の記憶」


タ・プロム遺跡の石造物に覆いかぶさるスポアンの大木

午後からは、アンコール遺跡のもう一つのお目当てであるタ・プロムへ出向きました。ここは、宮崎駿監督の「天空の城 ラピュータ」のモチーフになったことで知られています。境内は巨大なスポアン(榕樹)によって覆われ、遺跡を呑み込むようにのしかかっています。

以前BAKUさんの写真展「アンコールと生きる」で見ていただけに、その現実を直視して立ちすくむ思いがしました。巨大樹木にまるで食いちぎられるような石造物の姿は、強烈な自然の力をまざまざと見せ付けています。

しかし考えようによってはそれら植物と、石という鉱物とが一体となって新たな自然の造形物へと変化していっているようにも見えます。樹木を取り除けば遺跡は崩れます。まさに「共生」なのかもしれません。

他の遺跡では少しずつ復旧の工事が進められていますが、タ・プロムに関しては、自然の力を明らかにするために、樹木の除去や石の積み直しなどの修復は行われていません。


崩れ落ちた大きな石造の破片

アンコール遺跡は15世紀、クメール王朝が衰退すると、忘れられた存在となり、ジャングルの中に埋もれたのでした。1860年にフランス人博物学者のアンリ・ムオによって再発見されました。この壮大な遺産は、人類の世界の宝物なのです。しかし内戦が続き、国際的な救済が始まったのは、わずか10数年前です。

日本国政府アンコール遺跡救済チームの活動が続き、フランスや中国などでも復興への手を差しのべていますが、修復を待つ遺跡はあまりにも多すぎます。無数の遺跡が朽ち果てるがままになっているのです。「かけがえのない地球の記憶」としてのアンコール遺跡は、私にとっても「かけがえのない記憶」となり、強く心に印して、現地を後にしました。

帰国後、BAKU斉藤さんの写真展『幻都バンティアイ・チュマールの神々』が、東京・銀座を皮切りに始まりました。4月以降梅田、札幌、仙台、名古屋、福岡のキャノンギャラリーで開催されます。同名の写真集(梧桐書院刊)で、BAKUさんは「ようやく再生へのプロローグが始まった。カンボジアの復興の手立てとして、この写真が少なからず役立てていければと考えております」との一文を寄せています。


しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
第一章 展覧会とその舞台裏から
第二章 美術館に行ってみよう
第三章 アーティストの心意気と支える人たち
第四章 世界の美術館と世界遺産を訪ねて
 本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信・兵庫県立美術館長の序文より)
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
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