「写仏」普及へ限りない情熱

2005年9月5日号

白鳥正夫

 富士山と八ヶ岳を望む山梨県北杜市清里の国道沿いに仏画美術館があります。仏の姿を写す「写仏」の普及に情熱を注いでいる安達原玄さんが1995年4月8日、釈迦の誕生日に開館しました。館内の仏画や曼荼羅図はすべて安達原さんの苦心作です。丸10年を超えた美術館には意外な客もしばしば見受けられるようになったといいます。屈強な若者が瞑想したり、仏の絵に取り組んだりと、いやしの空間になっているのです。「生活の中にこそ祈りを」と唱える安達原さんは、2004年春にNPO法人「曼荼羅 祈り写仏の会」を立ち上げ、さらに第二美術館構想の具体化を急いでいます。

清里の閑静な田園に建つ安達原玄仏画美術館

曼荼羅や仏画でいやしの空間

 館の入口には、 2メートルの 「仏足石」 が、富士山に向かって、 お釈迦様が世界の平和を呼びかけている、というイメ−ジで置かれています。館に入ると、もの静かで幻想的な音楽が流れ、香がただよい、季節ごとの草花がいたるところに飾られています。2階の広く開かれた窓からは、八ヶ岳の田園が広がり遠くに富士山が望めます。日常の煩わしさを忘れ、心も安らぎます。
 館内で目を引くのは、天井や床に置かれている4.5メートル四方にもおよぶ曼荼羅図です。紺紙金泥や極彩色の胎蔵界と金剛界の曼荼羅に圧倒されます。10年かけて描いたというが「人間なにごとも成せば成る」感心するばかりです。
 さらに五大尊や釈迦仏画、 大乗仏教で説かれた様々な菩薩、 明王(みょうおう)などの尊像画を含め約50点が並び壮観です。作品以外にも、生きる人たちの喜びや悲しみなどを表現した世界各国の面や、 風土にちなんだ仏像など、 仏の世界に通じる置物が随所に展示しています。

胎蔵界曼荼羅中中台八葉院


 私がこの美術館を始めて訪れたのは1999年秋のことです。特別展「シルクロード 三蔵法師の道」を東京都美術館で開催中でしたが、終了後に廃棄する予定だった三蔵法師に関する年譜や地図、説明パネル、様々な装飾物などを引き取りたいとの申し出があり、訪ねたのです。それ以来、ほとんど毎年のように、清里を訪れ、美術館に身を置いています。安達原さんの一途な志と優しい人柄に惹かれてのことだが、三蔵法師のお引き合わせかな、と思ったりもします。
 2001年、夏休みで霧ヶ峰に行った際に再び立ち寄りました。特別企画展として、山梨の写仏教室の教え子たちが描いた「玄奘三蔵法師求法の道」展が開かれていたからです。1999年の特別展の時に使った写真パネルや年譜なども活用されていました。この日は名古屋からも写仏生多数が、バスで来館していました。
 2005年夏にも清里を訪れました。東京から来たという若い男女が仏のぬりえをしていました。数日前には身体に刺青をした男性数人が、時間をかけて仏画に見入っていたといいます。来場者の感想ノートには「とても落ち着いていやされました」「生きる勇気がわいてきました」といった文章が綴られていました。

苦心作の前で語る安達原玄さん

人生問い独学で築いた仏画世界

 安達原さんは1929年、山梨市の笛吹川のほとりで6人姉弟の次女として生まれました。祖父が生糸工場を経営していましたが、昭和の大恐慌のあおりで倒産。さらに幼少時、遊んでもらっていた女工さんから結核に感染し、一時隔離されて過ごしました。父は家庭的な人ではなく、後に再婚します。人間不信が芽生えた青春時代でした。
 気丈な母は、女手で働きながら6人もの子育て。「人に頼るな」が、生前の母の教えで、自分自身で生きていかねばならないと自覚したのです。長姉と2人で妹弟の世話をしながら、女学校を卒業することができ、23歳で結婚しました。嫁いだ3人の姉妹は協力し合って3人の弟たちを大学に行かせました。母の願いを引き継いだのです。

壁面にずらり並ぶ仏画

 やがて高度成長期に入り、設計技師だった夫は全国を飛び回っていたそうです。生活のゆとりと自由時間ができた安達原さんは、平家物語や万葉集など古典文学から老荘や孔子を読み、仏教書にたどりつきました。深夜、一人で過ごしていると、次第に「生きるってどういうことか。自分とは何なのか」を考えるようになりました。
 そして始めたのが般若心経の写経です。母の供養を願って1000巻をめざしていましたが、600巻まで進めた頃から、合掌している自分の姿を描くようになったといいます。母の教えで貧しさと困難を乗り超えて築いた生活の安定でしたが、心の平安を実感できなかったのです。そんな時出合ったのが曼荼羅です。
 単身赴任の夫に洗濯物を届けての帰路、京都の博物館で神護寺の「高雄曼荼羅」を見たのです。「ガーンと背筋を打たれたような衝撃が走った」。華麗で荘重、神秘な世界に触れた思いがしました。「私と同じ人間の心と手が、この世を包括した宗教世界を、こんなすばらしい細密画を描いたのだ。人間不信や生きることへの不満な思いを抱いていた自分の小ささを痛感した」。安達原さんは感激し「自らの手で曼荼羅を写すことで曼荼羅に描かれた真髄を体得することができるかもしれない」と決意したのでした。
 曼荼羅は、804年に真言密教を学んだ空海が帰朝の時に持ち帰ったと伝えられています。諸仏、菩薩、神々を網羅し、悟りの世界や仏教の哲理を図解したもの。難しい経文だけでは理解がかなわない部分を図の助けを借りて布教に役立てようと意図されたのでしょう。

コレクションの世界各地の面

 曼荼羅の世界に魅せられたからといって、それを描くとなると至難なことです。安達原さんは仏画の知識は全くありませんでした。図書館や古書店を巡り、文献や資料探しから始めたのです。京都や奈良のお寺や美術館に何度も通いました。原図を手に入れ、7年もかけドイツ製の比例コンパスを取り寄せました。描いては消し、消しては描き、毎日毎日デッサンしたのです。
 一方で、仏画を描くとなると、仏教の教えも学ばなくてはならなりませんでした。紙は、筆は、金泥の溶き方は、何もかも試行錯誤の連続でした。この間、師匠を求め、仏画復元の第一人者だった宮原柳僊氏を訪ねました。氏は高齢で弟子を取ることを固辞しましたが、独習した安達原さんの作品を見て「あなたは仏画を描くように生まれてたんだね」と言い、師事することを許しました。
 10年の歳月をかけ「高尾曼荼羅」を仕上げました。原寸大の完成品は、いま仏画美術館の天井に納まっています。その頃には、知らず知らず、手が体が心が写仏を覚え込んでいました。不動明王、菩薩、観音、飛天……。次々と作品が生み出された。眠ることも忘れ一心不乱に描いていると、筆の先に紫色の雲が漂うような錯覚もあり、自然に運筆がなめらかになった体験もあったといいいます。

NPO活動と第二美術館建設も

 美術館を開設するまで川崎市に住んでいましたが、自宅に訪ねて来た市役所文化課の職員が、「祈りを繋ぐためにも、あなたの仏画を広く市民に見てもらいましょう」と、展示会の企画を持ち込んできたのでした。1979年に川崎市民ギャラリーで初めて「仏教美術曼荼羅展」を開くと、大きな反響を呼んだのです。

2階展示室は安らぎの空間になっています

 こうして「祈り仏画展」は、出身地の山梨県立美術館をはじめ岡山、鳥取、東京・渋谷、高知、横浜、高崎などで毎年のように開かれました。海外でも1980年に川崎市文化使節としてアメリカで仏画指導してからは、イギリス、フランス、ベルギーなどを巡回しました。世界を知ることも大いに勉強になったそうです。
 鑑賞した主婦らから「ぜひ仏画を習いたい」との声が相次ぎました。東京・銀座で写仏教室を開いたのに続き、自宅隣接地に建てていたアパートでも開設。各所のカルチャーセンターから相次いで講師の要請があり、写仏教室は最盛期20カ所を数えました。一時期、門下生が2000人を超え、月に25日間も教える忙しさだったといいます。
 このため制作はもっぱら深夜になり睡眠時間がわずか3時間の日々が続いたそうです。こんな多忙の中、ほぼ4.5メートル四方の胎蔵界曼荼羅、 4.5メートル四方の金剛界曼荼羅など彩色の大作に挑みました。1988年には縦185センチ、横160センチの「涅槃図」の紺紙金泥屏風一双、金棺出現図3メートル20センチも完成、新境地を開いたのです。
 釈迦の生まれたインドへ10数回、ネパールやチベット、中国、韓国、タイ、ベトナムなどへ旅を重ねた。各地の歴史を秘めた仏像との出会いが目的でした。インドでは広大な大地に沈む夕日の中を、古い塔にロウソクを灯す古老たち、頭に水瓶を乗せて行く娘さんの姿に、仏の道につながる原風景を見た思いがしたといいます。
 「日常の中に祈りと感謝を」。安達原さんの目は社会に注がれます。
 1981年には戦災犠牲者の鎮魂と平和への願いを込め、「大日如来」を描き、広島市に寄贈しました。一人一仏の「万人が描く曼荼羅運動」を提唱し、1985年には写仏教室の生徒らの仏画展が川崎で開かれ、市民ら1838人の筆が入ったのです。2001年には清里の美術館で、知的障害者らの仏画展を開きました。「障害は個性であり、祈る心は普遍です」という安達原さんの言葉どおり、個性豊かな作品が並んだのです。
 専門家しか手がけなかった仏画を、形にとらわれず一般人にも広めようと、安達原さんは本の執筆にも精力的です。わが国で初めての『写仏下絵図像集』(1〜4巻)を出したのをはじめ、『写仏のすすめ』『写仏教室』『一日一佛』『写仏巡礼四国八十八所』『写仏三十三観音』『日常仏百態』(いずれも日貿出版刊)など10数冊にも及びます。
 再近刊の画文集『仏のはがき絵 喜びも悲しみも』(日貿出版刊)には、つれづれなるままに思い描いたはがきに、好きな言葉が添えられています。表紙絵には「ありがとう そんな人生でありたい」と綴られ、後書きには「曼荼羅は人間の心のイラスト図です。ここを訪れた人に自分自身の御仏と会話してほしい」と書かれています。

著書の一冊
『仏のはがき絵 喜びも悲しみも』
(日貿出版刊)

同じく著書の一冊
『老いては子に従ず』
(日貿出版刊)

 
 安達原さんは写仏普及の拠点として、私営の美術館を建設することは大きな夢でした。文化活動も積極的に取り入れ、横笛演奏者や現代音楽家を招いてのコンサートや、チベット宗教画の絵師の講演、天台宗声明などのイベントも展開しています。
 2006年2月に喜寿を迎える安達原さんは、「写仏」活動に懸命です。孫弟子は全国に散らばっていますが、山梨県下で5つの教室を受け持っています。遠く愛媛や福井、福島などからやってくる約60人にも月1回、直接指導にあたっているのです。受講生らとの海外ツアーも23回を数えます。そんな多忙な日々の上、手を痛めているが、なおも毎日アトリエへこもっています。
 NPO「曼荼羅 祈り写仏の会」にも400人以上が入会しました。2005年の総会には講師を招いて文化の集いも開きました。目下、最大の関心事が第二美術館の建設です。すでに複数の候補地を見つけており、数年後の開館をめざしています。手狭になって展示がままならない浄土曼荼羅図の大作を掲げたいといいます。「ここでは入館した方に浄土の世界を感じてほしい」と意気込んでいます。
 写経には古い歴史がありますが、写仏という言葉は辞書にありません。安達原さんが使い始めた写仏とは、仏の姿を絵筆で写すことですが、仏の心や教えを筆や紙などを使って、自身の慈悲心に移す、いわば祈りの「行」だといいます。
 「できれば筆をとる前に心身を清め、花を供え、香を焚き、合掌してから始めていただきたい」。これが安達原流の「写仏のすすめ」です。安達原さんの話には、独学で実践してきた重みがあります。

仏の顔のぬりえに取り組む若い人たち



しらとり・まさお
朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。

新刊
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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