「知の巨人」中尾佐助著作集に期待

2005年4月5日号

白鳥正夫

 

「文化」というと、すぐ芸術、美術、文学や、学術といったものをアタマに思いうかべる人が多い。農作物や農業などは″文化圏″の外の存在として認識される。しかし文化という外国語のもとは、英語で「カルチャー」、ドイツ語で「クルツール」の訳語である。この語のもとの意味は、いうまでもなく「耕す」という意味のことばである。地を耕し作物を育てること、これが文化の原義である。

 
 『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)は、こんな書き出しで始まります。私の書棚の片隅に、少し赤茶けた岩波新書第12刷があります。著者は知る人ぞ知る「知の巨人」中尾佐助さん(1916−1993年)です。南方熊楠ほど有名でないにしても、学問的な功績は偉大です。その中尾さんの「思考世界を読み解く」とのキャッチフレーズで全六巻からなる『中尾佐助著作集』が北海道大学図書刊行会から発刊が始まり、4月には3巻目が出版されます。

すでに刊行された
『中尾佐助著作集』の第一巻(左)と第三巻

没後10年を経て研究成果の展望

 中尾さんは愛知県生まれですが、京都大学農学部を卒業後、長年、大阪府立大学教授を勤められました。このため関西ではなじみの深い泰斗で、交流のあった研究者や薫陶を受けた学者たちが数多くいます。今回の刊行にあたって、国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫さんは「中尾佐助の業績は、独創的な発想と徹底的な実証研究に満ちている。彼の著作物の全領域が没後10年を経たいま、ようやく展望できるようになったことを、もっとも親しかった友人の一人として、おおいに喜びたい」との一文を寄せています。
 先月、その民博で私の旧知だった松原正毅教授が定年退官されることになり、記念シンポジウムとパーティーが開かれ出席しました。席上、松原教授が「梅棹先生は65歳で失明後も25冊の著書を出しました。自分も残りの人生を研究に費やしたい」と語っていました。
 また、このパーティーには、中尾さんが顧問を引き受けられた京大探検部の面々も多数出席していました。日本で初めての「探検部」のメンバーに「週刊金曜日」編集委員の本多勝一さんがいました。本多さんは私の朝日新聞時代の先輩でもありますが、当時大阪府立大の中尾助教授から探検の手ほどきなど数々の指導を受けたということでした。「中尾ワールド」の広がりと深さを知る思いがしました。

自分の足で歩き、見て、考える

 著作集は、中尾さんの弟子で大阪府立大学大学院教授の山口裕文さんらが、著書や新聞、雑誌などを丹念に調べ、第一巻「農耕の起源と栽培植物」から「料理の起源と食文化」、「探検博物学」、「景観と花文化」、「分類の発想」、第六巻「照葉樹林文化論」までに収録します。元民博館長の佐々木高明さんや東京大学名誉教授の岩槻邦男さんらが詳しく解説しています。
 研究者にとどまらず中尾ファンの待望の書籍といえ、すでに昨年11月末に第一巻(A5判上製箱入り約786頁、定価12,600円)と第三巻(A5判上製箱入り約626頁、定価10,500円)が出版されております。中でも「探検博物学」には、1959年の第8回エッセイストクラブ賞を受賞した「秘境ブータン」が収められています。あらためてこの名作を通読しました。

科学研究はきりのないものだ。同じ地域の調査でも、調べれば調べるほど新しい発見がある。しかしそれより新しい地域を開拓するほうが、探検を志す者にとって、もっともっと魅力がある。ブランクな地域、ブランクな科学の研究分野、その中に道を切り開いて行くことが、大切だった。「ネパールの次はブータンだ」

 1958年当時、鎖国状態にあったブータンに入国したときの紀行文です。自分の足で歩き、見て、そして考える旅を実践しているのです。その記述は、よく観察し、論理的で、知らず知らずのうちに、まるで自分がその場に居るように臨場感にあふれ、「中尾ワールド」に引き込まれていくのです。

1958年、ブータンにて
従者の引くヤクに乗る
中尾佐助さん。
撮影者不明。

1958年、ブータンにて
片持式の橋を渡る
中尾佐助さんら。
撮影者不明。

 中尾さんは1940年以降、半世紀にわたってカラフトからポナペ島、内蒙古、ネパール、パキスタン、インド、中国、さらにはアフリカ、東南アジア、地中海地域、西ヨーロッパと海外探検調査の足跡を広げています。この幅広いフィールドワークには驚くばかりですが、さらにその記録は、実証研究に徹しているのです。
 私も1997年と98年に朝日新聞創刊120周年記念事業として中国・唐代の名僧、玄奘三蔵が7世紀、当時の都・長安(西安)からインドまでを踏破した道のりを解明する学術調査団に加わったのです。連日、35度を超す暑さの中、広大な地を車で走り遺跡を巡り駆け回ったのでした。その後もシルクロードの旅を続けていますが、中尾さんならどんな調査記録を書き残していただろうかと思いを馳せたのです。

1959年、アッサムの農耕風景。
中尾佐助さん撮影。

1959年、ブータンのプナコで。
川の中程に城らしき建物が
写っている。
中尾佐助さん撮影。

時代を超えた「総合知」の魅力

 私の書棚には、中尾さんのもう一つの著作『料理の起源』(NHKブックス、1972年)の第24刷があります。日本を含む東アジア一帯の料理の起源にまで突っ込んだ労作です。
中尾さんは、前書きで「ところが、加工、料理の問題は、いわば学問的に研究されることの非常に乏しい分野である。全世界の家庭で毎日必ず行っている食糧の加工、料理ということに、今までの学者は理解しがたいほど冷淡であった」と記しています。その内容は実にユニークな視点で学問的には切り込んでみようとする試みなのです。
 この本は、日本人の米の炊き方を、タイ北部やラオスとの関係で考察することから始まり、世界各地の麦料理法、雑穀や豆の料理、肉と魚の料理、さらに乳の加工にまで多岐にわたり、それまでの観念的な学問や教養の書ではなく、生活と料理のための学問と教養の書であるところに非凡さがうかがえました。

シッキム・アッサムで調査のため、
写真を撮っている中尾佐助さん。
撮影者不明

 中尾さんの学問的到達点ともいえる「照葉樹林文化論」は、1970年前後から、当時は若手の新進気鋭だった石毛直道・前民博館長ら文化人類学者や民族学者たちの間でも注目されたのでした。それまで「西洋」との関係だけで文明や文化を考え追求してきた日本の知的回路に、東アジア地域との関係で日本文化を考察する影響を与えたのです。
 4月末に出される第四巻「景観と花文化」(A5判上製箱入り約820頁、定価12,600円)の内容は、「世界の庭の四大類型」に代表される「花の美学」にかかわる著作を「中尾園芸文化論」として集成しています。「花はなぜ美しいか」に始まって、日本の原生林やブータン・ヒマラヤの植生、世界の花の歴史など多面的に取り上げられています。

1968年、西アフリカの露天で
野菜を売る住民ら。
中尾佐助さん撮影。

 「今なぜ中尾佐助なのか」。今回の著作集に取り組んでいる図書刊行会の成田和男さんから、こんな文面の私信を寄せていただきました。「昨今、自然科学をはじめとする研究は細分化の袋小路に陥りがちです。中尾先生は実証研究に裏打ちされた総合研究の先駆けであり、その思考の雄大さはいわば総合知ともいうべきで、時代を超えたものです」。
 今秋には全六巻完結の運びとなりますが、おそらく約4500ページにも達するであろう著作集は、私たちの知識欲を限りなくかきたてずにはおかないでしょう。
 なお『中尾佐助著作集』の問い合わせ先は、北海道大学図書刊行会(TEL011−747−2308 FAX011−736−8605)です。

完結が待たれる『中尾佐助著作集』

しらとり・まさお
朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。

新刊
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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