夫唱婦随 芸の道

2005年3月20日号

白鳥正夫

 夫は毛筆ならぬ指で文字を書き、妻は人の名前を31文字に織り込んで短歌を詠む。東大阪市在住の辻和雲、歌子夫妻は共に学校の教師でしたが、「第二の人生」は芸の道へ。しかも発想も豊かに「ゆび書の世界」と「姓名短歌」。それぞれに商標登録し、会を主宰し、普及と後進の指導に余念がありません。

ペン先が「ゆび書」のヒントに

 辻さん夫妻との交際は、約12、3年に及びます。私が朝日新聞社企画部に転任した直後に、社の友人の紹介で和雲さんの個展をのぞいてからです。この時、初めて「ゆび書」を見ました。会場には「夢」や「宙」、「日々是好日」などの文字が並んでいました。力強い筆致もあれば優雅な筆あしらいの作品も。いずれもが、指で書いたと聞いて不思議な感じがしたものです。

ゆび書「宙」


 「指は筆よりも意のままに動きやすいんですよ。太い部分も、細かな部分も表現できます」。作品を前に、和雲さんは力説しました。一本の爪や指だけで書いたもの、親指と人差し指で書いたもの、五本の指を使ったもの……。時には両手十本を動員して書くこともあるといいます。「ゆび書」が持つ表現力の多様さに驚かされたのでした。
 1928年生まれの和雲さん。書との出会いは小学4年で、親から人前できれいな字が書けるようにと、書道塾へ通わされたそうです。初めは嫌々だったが、次第に上達し、書が楽しくなり、好きになったといいます。
 和雲さんは立命館大学の理工学部を卒業して、八尾市の中学校で理科の教員になったのです。「黒板に美しい字を」と、本格的に書を学び、のめり込みました。それが高じ1971年、43歳の時に教員生活を捨て、書家として創作活動に入ったのです。
 「いま好きな道に専念しなければ、一生悔いる」が動機でした。当時、歌子さんも小学校の教員をしており、ご主人の良き理解者でした。硬筆と毛筆の両師範免許を取得し、家で書道教室を開く和雲さんを見守ったのです。
 「教師でしたから、毛筆以上にペン字を書いてきました。ペンの繊細さと毛筆の豊かさ。どちらでも表現できない特異な線を書けないだろうか」。それが指だったのです。
 和雲さんは、ペン先の二つに割れたカラス口を見つめていてふと思いついたそうです。ペンの裏側にたまった墨が真ん中のすき間を通って紙の上にインクをしたたらせていくのがヒントになったのでした。この原理は親指と人差し指をきちっと合わせた時にも応用できると考えたからです。
 「慣れるまでは相当時間がかかりました」。指の間にふくませる墨汁の調合にも苦労したそうです。試行錯誤の末、墨をふくませたスポンジを手の平で握り、指にしたたる墨で文字を書く技法を考案したのでした。これが独自の「ゆび書」の開拓につながったのです。

ゆび書アート作品「楽」


 
展覧会のタイトル字に味わい

 爪や指の関節まで使い、細い線も太い線も、曲線も自由自在。漢字はもちろん、ひらがなやカタカナ、英語だって書けます。まさに「弘法筆を選ばず」の心境なのです。自宅で書を教えるかたわら、自ら創作に打ち込む和雲さんは、新たな前衛書法「ゆび書」に燃えたのです。
 1982年から展覧会活動を始め、各地で精力的に個展を開きました。作品の販売よりも、苦労して編み出した「ゆび書」を知ってもらうのが第一の目的です。89年と90年にはドイツのデュッセルドルフに招かれ、93年には中国・西安で日中友好連絡会議の交流事業の一環として、「ゆび書」の実演と実地指導に出向きました。

中国での実技指導をする辻和雲さん


 「指は生命の脈拍を伝える生きた筆」がモットーの和雲さん。まず白い紙をにらみ、心を集中させ、右手の指を墨つぼに浸し、「ウッ」と気合をかけ、一気に黒い指を走らせる。和雲さんは日ごろ温厚ですが、大きな作品を書く時は迫力があります
 和雲さんの活動が新聞やテレビでも報道され、舞台の案内チラシの題字にも採用されました。歌子さんの薦めもあって、私が担当していた展覧会のポスター・チラシ、図録の表紙などのタイトル字にも、「ゆび書」で書いていただきました。
 野村廣太郎の「おおさか百景」を手初めに、宮脇綾子の「アプリケ芸術50年」などで依頼したのですが、活字とは違った味わいが感じられました。極め付けは「シルクロード 三蔵法師の道」展でした。

展覧会「三蔵法師の道」
タイトル字のポスターを前に和雲さん


 「三蔵法師は17年かけ、3万キロの道程を砂漠や深山を越え、天竺にたどりつき、長安に帰って来たのです。この夢とロマンにあふれた壮大な旅を六つの字に託しました」。和雲さんは自信満々でした。起伏のある6文字に苦しい道のりが表現されていて、納得したものです。
 和雲さんは、朝日カルチャーセンター講師を引き受けて今年10年目を迎えました。中之島教室でのユニークな「ゆび書」講座は、現在発売中の『大阪人』4月号に大々的に紹介されています。独特の大阪弁で生徒たちの個性を引き出す指導ぶりには定評があります。今は「ゆび書 おもしろアート」に力を注ぎ、朝日カルチャーセンターの名古屋教室でも指導に当たっています。
 「ゆび書」普及に力を入れる和雲さんは近年、「ゆび絵」にも力を入れています。かねてから絵画的な字を手がけ、墨だけでなく絵の具を活用してのカラー作品など、若い人たちも興味をもてるような新しい手法に意欲を燃やしています。
 「原始時代、人は指で土に何かを書いただろうから、指は人間にとって最古の表現道具だったと思います。いま表現の原点にさかのぼり、表現の極限を追い求めたい」。辻さんはなおも精進を重ねます。千変万化の「ゆび書」の魅力は尽きません。

新作のアート作品「幽雪」

ゆび書の登録商標

姓名を31文字に詠む世界

 和雲さんのマネジャー役を引き受けてきた歌子さんは、長年の教師活動で教育問題に造詣が深く、各地で講演などもこなしてきました。『子どもの字を上手にする本』『どこまでいっても親子です』(いずれも学陽書房)などの著書があり、新聞などにエッセイなども書いています。 歌へのたしなみも古く、歌会にも所属していました。外来語やカタカナ語があふれ日本語の衰えが取り沙汰させる昨今、知的な言葉遊びを新しい形で短歌に取り入れようと考えついたのが「姓名短歌」です。1992年4月から会を設け、自宅で教室を始めています。
 姓や名にある漢字の意味や背景を1文字ずつ調べ、言葉のイメージを膨らませます。歴史上の人物なら書物をひもとき、それぞれの業績や人物像などを掘り下げ、その人にふさわしい世界が広がるように言葉をつらねていきます。

姓名短歌「紫式部」


 例えば福沢諭吉はこんな美しい言葉で綴られています。「福祥の 澤に溢れて諸人(もろびと)を 諭し匂える 吉祥蘭かな」。人々に学問を説く福沢諭吉の生き様について、姓名4文字を織り込み、見事に詠みこんでいます。
 また清少納言では「清貞は 少来なりて玲瓏(れいろう)と 水茎冴えて 納む言の葉」。幼少から心がけが美しい文人だったことを知り、後世に残るすばらしい文章をこだまが響くようにしたためた様子を、清少納言の4文字に散りばめています。
 私の名前も次のように詠んでいただきました。「白々と 明けそめし空 鳥立ちて 強く正しき 武夫(もののふ)の道」。名前の4文字は金字になっています。客間の壁に掲げ、時として苦笑まじりに眺めているのです。

姓名短歌「白鳥正夫」

 
 子や孫の誕生記念をはじめ、入学や卒業、結婚や還暦、就職祝いにと依頼してくる人も多いそうです。その人だけのオリジナルな贈り物に最適だからです。揮毫はご主人が担当しています。まさに夫唱婦随なのです。
 2003年9月には朝日新聞大阪本社一階にある読者サービスコーナーのアサコムホールで夫妻のチャリティー展示会が催されました。和雲さんの掛け軸や額などの新作に加え、歌子さんの姓名入り短歌の色紙作品も展示されました。
 また昨年3月には、神戸で歌子さんだけの「姓名短歌展」で、新境地を開きました。歌子さんは「姓名はその人だけの一生の顔です。手元に辞書さえあれば、誰にでも楽しくできる日本語の遊びです。姓名の文字が持つ不思議なイマジネーションの世界を楽しみましょう」と呼びかけています。
 なお「ゆび書」と「姓名短歌」の問い合わせ先は、電話・FAX 0729−61−4832 辻さん宅です。

歌子さんの姓名短歌展会場風景(神戸)

しらとり・まさお
朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)、『鳥取砂丘』『鳥取建築ノート』(いずれも富士出版)などがある。

新刊
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢しごと 三蔵法師を伝えて
発売日:2000年12月21日
定価:本体1,800円+税
発行:東方出版
内容:玄奘三蔵の心を21世紀へ伝えたいという一心で企画した展覧会。構想から閉幕に至るまで、筆者が取り組んだ「夢しごと」のルポルタージュ。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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