奇想天外、アドルフ・ヴェルフリの世界

2017年1月20日号

白鳥正夫

アール・ブリュットは、少し耳慣れない言葉かもしれませんが、近年アートの世界で注目のジャンルです。専門的な美術教育を受けていない作り手が芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品です。その分野を代表する国際的な伝説的芸術家の日本初となる大規模な個展「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」が兵庫県立美術館で、2月26日まで開催されています。その特徴は、既存の表現から影響を受けず、ひたすら自己の内的衝動に従って制作しており、類例のない驚異的な表現で描き出された奇想天外な物語に圧倒されます。

真打登場、日本初の回顧展に74点


参考写真:作業机の前で
紙のトランペットを持つ
アドルフ・ヴェルフリ
(1926年頃)
以下、作品写真は
ベルン美術館
アドルフ・ヴェルフリ財団蔵
(C)Adolf Wölfli Foundation,
Museum of Fine Arts Bern

そもそもアール・ブリュットとは、生の芸術、素材そのままの芸術といった意味のフランス語で、英語ではアウトサイダー・アートと訳されています。こちらはよく耳にする言葉で、精神疾患や知的な障がいのある人、ホームレス、幻視や霊能者らが独自に制作した作品などを指しています。前衛的な美術の一分野として、海外では専門の美術館や画廊もあるそうです。

兵庫県美では2012年に「解剖と変容:プルニー&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠」展を取り上げています。これより先に2008年に国立国際美術館で開催されたオーストラリア先住民族のアボリジニの「エミリー・ウングワレ」展の作品に、一脈通じるものがありました。こちらも専門的な美術教育を受けずにアボリジニの世界観を抽象絵画に具現したもので、新たな表現世界に驚嘆したものです。
 
アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)は、スイスの首都ベルン近郊の貧しい家庭に生まれ、幼少期に両親とも死別し、青年期には何度か失恋します。兵役の後、農場やで働いたり、墓堀り、セメント工など職を転々とし、孤独な生活の果て、26歳の時に幼女への性的暴行未遂で逮捕され、刑務所に送られ、2年の刑に服します。

その後31歳の時にも女児への性的虐待未遂で再び逮捕され、精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、1895年から人生の大半をヴァルダウ精神病院で過ごしました。独房で新聞用紙に絵を描くようになり、やがて66年の生涯を終えるまでに、『揺りかごから墓場まで』、『地理と代数の書』、『葬送行進曲』といった45冊、25,000ページにわたる壮大な自叙伝を描いたのでした。

今回の展覧会は、アール・ブリュットの芸術家の中でもトップクラスの知名度を誇る真打登場といった触れ込みだけに、ベルンのアドルフ・ヴェルフリ財団の全面協力により、門外不出とされてきた第一級の作品を含む74点が出品され、日本初の回顧展となっています。展示はほぼ時系列に6章から構成されています。

初期から晩年、壮大な自叙伝の絵物語


《ニュー=ヨークの
ホテル・ウィンザー》
(1905年)

図録などを参考に章の内容と主な作品を取り上げます。1章が「初期のドローイング/楽譜」(1904−1907)です。ヴェルフリの診察記録によれば、ドローイングを描き始めたのは1899年とされています。最初期に描かれた作品は200点から300点程と考えられていますが、現存するのは1904年以降のもので、わずか50点ほどです。新聞用紙に鉛筆で描かれた単色の作品をヴェルフリは「楽譜」と呼び、そこに「アドルフ・ヴェルフリ、シャングナウの作曲家」と署名したそうです。《ニュー=ヨークのホテル・ウィンザー》(1905年)など、まさに無秩序な空想の製図的な作品です。


《エン湖での開戦.
北アメリカ》
(1911年)

《ネゲルハル
[黒人の響き] 》
(1911年)

2章の「揺りかごから墓場まで」(1908−1912)は、ヴェルフリが最初に手がけた叙事詩で、全9冊、2,970頁におよんでいます。主人公の少年が、家族とともに世界をめぐる旅行記です。ここではヴェルフリの悲惨な子供時代がわくわくするような物語へと置き換えられているのです。


《アリバイ》(1911年)

 


《アリバイ》の
ケース展示

《エン湖での開戦.北アメリカ》)や《ネゲルハル〔黒人の響き〕》(いずれも1911年)が展示されています。中でも《アリバイ》(1911年)は、4メートル68センチもの大作で、ケースに収められています。新聞用紙に鉛筆で描かれたこの一作を見ただけでも、比類なき創造性をうかがえます。

続く3章の「地理と代数の書」(1912−1916)は、死後に「聖アドルフ巨大創造物」を成し遂げるための方法を実の甥に説きます。「聖アドルフ資本財産」があれば、全宇宙を買い上げ、都市を形成し近代化を遂げ、その暁には「巨大透明輸送機」に乗って宇宙へと漕ぎ出していくという希有壮大な空想物語です。《クリノリン.ギーガー=リナ.糸つむぎ=リナ.安楽椅子=リナ.おとぎ話=安楽椅子=リナ.大=大=女神》、《シオン=ウォーター=フォール》(いずれも1914年)など出品されています。


《クリノリン.ギーガー=リナ.
糸つむぎ=リナ.安楽椅子=リナ.
おとぎ話=安楽椅子=リナ.
大=大=女神》
(1914年)



《パリの=美術=展覧会にて》(1915年)


《芸者−お茶と
小箱[小煙管] 》
(1919年)

《父なる=神=
聖アドルフの=
ハープ》
1917年)

次いで4章「歌と舞曲の書」(1917−1922)/「歌と行進のアルバム」(1922−1928)で、「聖アドルフ巨大創造物」を祝福する楽曲として、7,000頁以上にわたる途方もない長さの行進曲、ポルカ、マズルカのシリーズを作曲します。曲は階名唱法(ドレミファ音階)で書かれています。それらを飾る作品としては、素描よりも雑誌の切り抜きのコラージュが多く、《全能なるモーターのついた機関車,165台の車両を持つ,総量6,000,000トンの,積載量》(1919年)や、日本の芸者をモチーフにした《芸者−お茶と小箱〔小煙管〕》(1919年)などがあります。

5章「葬送行進曲」は、全16冊、8,000頁を超えます。自らに向けたレクイエムとも言われ、抽象的かつ音声詩の形式による音やリズムが、物語にほとんどとって代わっています。ヴェルフリの創作の第五部にあたる本書は、1930年の死により未完に終わったのでした。主な出品作に、《無題(キャンベル・トマト・スープ)》(1929年)などがあります。

最後の6章は「ブロートクンスト―日々の糧のための作品」(1916−1930)です。ヴェルフリの精神科医ヴァルター・モルゲンターラーが「ブロートクンスト(パンのための芸術)」と名付けたドローイングは、おそらく1,000点以上描かれ、750点が現存します。一部のコラージュを除き、多くは色鉛筆で一枚ずつ独立したシートに描かれ、裏面には「聖アドルフ巨大創造物」の物語にまつわる記述があります。ヴェルフリ自身は「肖像画」と呼んだこれらのドローイングを色鉛筆やタバコと交換し、さらに精神病院の職員や、創作を称賛しに訪れる人々に売っていたそうです。《聖アドルフ=王座,=アルニカ:同./スイス./》(1917年)などが展示されています。

アール・ブリュット作品を超えた芸術


《無題
(キャンベル・
トマト・スープ)》
(1929年)

《聖アドルフ=
王座=アルニカ》
(1917年)

ヴェルフリの作品には、線と渦巻き、文字、数字、楽譜などに加え、所どころに、頭に十字架を乗せた人物や、正体不明の生き物が描き込まれています。新聞や雑誌、書籍から切り抜いたイメージをコラージュした作品も数多くあり、興味を引きます。ただ一種の妄想としか思えない作品群は、ヴェルフリの頭の中では、絵物語として構成されているのです。ヴェルフリにとって描くことのみが生きる意味であり、力だったのでしょうか。いずれにしても草間彌生やジャクソン・ポロックにも劣らない先駆的な表現力です。

ヴェルフリ回顧展は、鑑賞のための美をテーマにした美術展と違って、内面から発する表現として自らのために制作しているだけに、創造力の根源をも問いかけるような迫力を感じました。と同時にあらためて人間の創造する「アートの世界」の奥深さを思い知らされます。こうした新しいアール・ブリュット作品をいち早く紹介する美術館の試みに、私たちも足を運んでみる価値があります。

この展覧会を監修した服部正・甲南大学文学部准教授は、2012年の「解剖と変容」展を企画した当時の兵庫県美学芸員で、「私たちもそろそろ、扉を押して中に入る時間だ」と強調していました。今回の図録に「アール・ブリュットの体現者としてのアドルフ・ヴェルフリ」と題して、次のように記しています。

スイス連邦鉄道の特急列車には、スイスゆかりの著名人の名前が付けられている。この著名人のリストには、建築家のル・コルビュジエや心理学者のジャン・ピアジェと並んで、アドルフ・ヴェルフリの名前が含まれている。いまやヴェルフリは、スイスを代表する画家のひとりなのである。そうであるなら、なぜ彼のことを殊更に「アール・ブリュットの王」と呼ぶ必要があるのだろうか。彼にアール・ブリュットの冠をかぶせる理由は、おそらくヴェルフリ当人の側ではなくアール・ブリュットの側にある。ヴェルフリの評価において、彼はもはやアール・ブリュットという肩書きを必要としていないかもしれない。だがアール・ブリュットにとっては、いまもヴェルフリは欠くべからざる存在である。

長年様々な展覧会を見てきた私にとって、既成概念を脱する興味深い展覧会でした。人間の表現世界の底知れぬ可能性と魅力を体感させる作品に、「これはアウトサイダー作品ではなく、芸術である」との印象を強くしました。展覧会は3月7日から4月16日まで名古屋市美術館、4月29日から6月18日まで東京ステーションギャラリーに巡回します。


展示会場でヴェルフリ作品を丹念に見入る観客

 



しらとり まさお
文化ジャーナリスト、民族藝術学会会員、関西ジャーナリズム研究会会員、朝日新聞社元企画委員
1944年、新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。

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