時代や社会を考えさせる二つの美術展

2012年3月6日号

白鳥正夫


ベン・シャーン展が
開催されている
名古屋市美術館

東日本大震災から1年になります。万単位の犠牲者を出したばかりでなく、被災地では瓦礫処理も進んでいません。とりわけ福島第一原子力発電所の炉心溶融に伴う放射能の拡散はなお深刻な事態です。こうした時期、アメリカの水爆実験で被爆した日本のマグロ漁船第五福竜丸を題材にした作家として知られる「ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト」展が名古屋市美術館で開かれています。一方、専門的な美術教育を受けていない作り手が芸術文化や社会から距離を置きながら制作した作品による「解剖と変容:ブリュット&ゼマーンコヴァー チェコ、アール・ブリュットの巨匠」展が兵庫県立美術館で開催中です。ともに3月25日までです。今回は美術表現における時代や社会との関わりを考えさせられる二つの展覧会を紹介します。

20年ぶりの「ベン・シャーン」回顧展は
放射能被爆の「第五福竜丸」題材の作品も


『芸術新潮』に掲載された
「自画像」(左)と
『ここが家だ』の
「ラッキードラゴン」

「ベン・シャーン」展に関しては昨年秋、上京中に立ち寄った銀座のヒロ画廊にも作品借用の打診があり、12月に先行開催の神奈川県立近代美術館葉山にも誘われていました。その後『芸術新潮』(2012年1月号)に特集され、NHKの日曜美術館でも紹介されており、注目していた経緯があります。

2月になって開かれた名古屋会場の報道説明会と内覧会に駆けつけ、じっくり観賞できました。しかし作品の撮影が認められず、ネットでの広報に厳しい制限がありました。主に著作権処理上の理由によるとのことですが、社会派のアーティストの展覧会にそぐわない状況であり、反発を覚えました。

『芸術新潮』によれば、この展覧会を企画した福島県立美術館の荒木康子学芸員は2011年3月11日の午後、展覧会打ち合わせのため東京の赤坂にいて、帰館できたのは3日後だそうです。美術館は地震の被害は少なかったものの、原発による放射線量が高く1ヵ月余休館。再開された展示にシャーンの版画集『一行の詩のためには…:リルケ「マルテの手記」より』が展示されたのでした。


ポスターなどの展示

さてベン・シャーン(1898−1969)ですが、現在のリトアニアの貧しい木彫職人の子として生まれています。両親ともユダヤ人で、1906年に移民としてアメリカに渡ります。ニューヨークでは、石版画職人として生計を立て、肉体労働者、失業者など社会の底辺にいる人々と身近に接し、社会の不正義に厳しく迫るとともに、人々の怒りや哀しみ、痛み、そして喜びに深い共感を寄せました。

社会派リアリズムの画家として、戦争や貧困、差別といったテーマの作品を発表しています。とりわけ「サッコとヴァンゼッティ事件」「トム・ムーニー事件」などの冤罪事件を告発する作品で注目され、1959年の核実験で被爆した「第五福竜丸事件」をテーマにした「ラッキードラゴン」シリーズなどの代表作があり、最晩年には詩人リルケ「マルテの手記」をテーマにした石版画連作を遺しています。


日本各地を撮影した
スナップ写真

今回の展覧会は、日本では1991年以来約20年ぶりの回顧展で、絵画をはじめ素描、版画、ポスターなど約200点と、オリジナル50点にデジタルイメージなどによる約250点を加えた写真によって構成されています。

主催者によると、今回の展覧会の特徴は「アメリカのハーバード大学付属フォッグ美術館の協力を得て(省略)、シャーンの創作において重要な役割を持ちながら日本ではあまり紹介されることがなかった写真作品に光を当て、あるイメージが絵画や素描、版画、ポスターなどの表現手法において多様に変化して用いられ、豊かな表現世界を生み出していることを作品に即して紹介」とのことです。

展示構成は、「ドキュメンタリー、そして社会への告発」「『私』から共感へ」「文字への愛、神話の力」「アジア、そして日本へ」といった4章に分けています。冤罪事件など同時代の人間社会を取り上げた第1章から、第2章では「私」に視点を置き、やがて「あなた」へとヒューマニスティックで普遍的な造形へと変化します。これら二つの章では自ら撮影した写真と深く関わっており、絵画と写真などを比較展示していて、ファインダーを通して見た人間社会を、絵筆に置き換えどのように表現したのかが着目されます。


「ラッキードラゴン」の
テレビ撮影

第3章では、時代を映すポスターや哲学や神話などをモチーフにした絵画、さらには書籍やレコードジャケットの仕事、晩年の石版画など幅広く多様なシャーンの作品世界を紹介しています。さらに一室を使い、「マルテの手記」の石版画連作を展示しています。プラハ出身の詩人ライナー・マリア・リルケが著した小説で、パリの裏町に暮らす孤独な青年の思索が綴られています。シャーンは70歳の晩年に完成させたのでした。

第4章は、「日本へ」のコーナーです。シャーン夫妻は1960年に来日、ほぼ1ヵ月にわたって京都を中心に大阪、熱海、鎌倉、東京、日光など各地を観光しています。この時に撮影した数多くの写真も展示されています。観光名所より、街角の看板や町の情景などのスナップを撮っていて興味深いものがあります。

シャーンと日本との関わりは、アメリカの物理学者ラルフ・E・ラップ博士が「第五福竜丸事件」について詳細な報告論文を雑誌に掲載した際に、挿絵を担当したのがきっかけとなったのです。その後、挿絵から水彩、テンペラ画に展開し、一連の「ラッキードラゴン」シリーズは、晩年の代表作となったのでした。


絵本『ここが家だ』の表紙

それから約半世紀たって、アーサー・ビナードがベン・シャーンの絵に詩をつけ、絵本『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(2006年、集英社刊)を著したのでした。最寄りの図書館から借りてページをめくると、ビナードが後書きで、主人公として描いた無線長だった久保山愛吉さんについてシャーンが語った深い人間愛を物語る次のような一文を記しています。

放射能病で死亡した無線長は、あなたや私と同じ、ひとりの人間だった。第五福竜丸のシリーズで、彼を描くというより、私たちみなを描こうとした。久保山さんが息を引き取り、彼の奥さんの悲しみを慰めている人は、夫を失った妻の悲しみそのものと向き合っている。亡くなる前、幼い娘を抱き上げた久保山さんは、わが子を抱き上げるすべての父親だ。

展覧会図録の中で、酒井哲朗・福島県立美術館長は「第五福竜丸は、アメリカでは『ラッキードラゴン』と訳された。福島を英訳すれば『ラッキーアイランド』である。どちらも放射能汚染というアンラッキーな運命を共有することになった。(中略)いまわれわれは、ベン・シャーンとともにすこし立ち止まって、人間の運命や未来について考えてみてもよいのではないだろうか」と指摘しています。

展覧会は4月8日から5月20日まで岡山県立美術館へ、その後6月3日から7月16日まで福島県立美術館へ巡回します。

アール・ブリュットの「解剖と変容」展は
チェコの2人の作品や映像を日本初公開


アンナ・ゼマーンコヴァー
「無題」
1962-65年頃
(abcdコレクショ)

「解剖と変容」展の方は、タイトルからして特異ですが、日ごろお目にかからない展覧会です。長年様々な展覧会を見てきた私も何ら知識がなく、広報資料に頼るしかありません。

そもそもアール・ブリュットとは、生の芸術、素材そのままの芸術といった意味のフランス語で、英語ではアウトサイダー・アートと訳されています。こちらはよく耳にする言葉で、精神疾患や知的な障がいのある人、ホームレス、幻視や霊能者らが独自に制作した作品などを指しています。前衛的な美術の一分野として、海外では専門の美術館や画廊もあるそうです。

世界有数のアール・ブリュット・コレクションであるフランスの非営利団体「abcd」の所蔵品約100点と関連資料によって、チェコ出身の2人の作者の作品を本格的に紹介する日本で初めての展覧会で、生物の形態の解剖学的変容をテーマに展示しています。


アンナ・ゼマーンコヴァー
「深みからの上昇」
1965年頃
(abcdコレクショ)


アンナ・ゼマーンコヴァー
「無題」
1962-65年頃
(abcdコレクショ)
 

アンナ・ゼマーンコヴァー(1908‐1986)は、25歳で結婚し て4人の子どもを生み、40歳の時に家族でプラハに移住。子どもたちが自立したことで気分が不安定になり、絵を描くようになったそうです。空想上の植物や花をモチーフとする作品を多く手がけ、紙に穴を空けたり皺を寄せたりしてレリーフ状にした作品や、絵の上から刺繍を施した作品もあります。


ルボシュ・プルニー肖像写真
 撮影(C)マリオ・デル・クルト 
2010年

ルボシュ・プルニー(1961‐)は、小学校を卒業後、電気技師見習、鉄道員、店員などの職を転々とし、1989年からはチェコ芸術大学でモデルとして働きます。幼い頃から絵を描くことと解剖することに強い関心をもち、身体をテーマにした作品を描くようになります。作品には、インクのほかに血液や毛髪や皮膚など、生体から取られた材料が用いられることもあるとのことです。

展覧会では、ゼマーンコヴァーが絵を描き始めて間もない1960年代前半の作品から、最晩年のサテン布を切り抜いてコラージュした作品までの代表作60点の絵画を展示。プルニーの方は、絵画30点とオブジェ1点のほか、針と糸で自らの顔を縫ったパフォーマンスの写真などで、いずれもほとんどが日本初公開です。
会場では、「abcd」創立者のブリュノ・ドゥシャルムが2009年に制作したアール・ブリュットを紹介する約90分の長編ドキュメンタリー映画「天空の赤」を、特設シアターで上映し、映画で取り上げられた松本国三ら6人の作品16点も展示しています。


ルボシュ・プルニー
「無題」
2008年
(abcdコレクショ)


ルボシュ・プルニー
「無題」
2001年
(abcdコレクショ)
 


これらの作品世界は、2008年に国立国際美術館で開催されたオーストラリア先住民族のアボリジニの「エミリー・ウングワレ」展に一脈通じるものがありました。こちらも専門的な美術教育を受けずにアボリジニの世界観を抽象絵画に具現したエミリーの底知れぬ迫力に驚嘆したものです。

今回の作品は、鑑賞のための美をテーマにした美術展と違って、内面から発する表現として自らのために制作しているだけに、刺激的で迫力を感じました。と同時にあらためて人間の創造する「アートの世界」の奥深さを思い知りました。こうした新しいアール・ブリュット作品をいち早く紹介する美術館の試みに、私たちも足を運んでみる価値があります。

展覧会を企画した兵庫県立美術館の服部正学芸員は、「私たちもそろそろ、扉を押して中に入る時間だ」と強調しています。5月26日から7月16日まで広島市現代美術館に巡回します。


 

しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
序 章 国境を超えて心の「家族」がいる
第一章 各界識者と「共生」を語る
第二章 変容する共産・社会主義
     世界の「共生」
第三章 ミニコミ誌『トンボの眼』から
    広がる「共生」の輪

私たちは誰しも一人では生きていけないことをわかっていながら、家族や地域、国家 や国際社会のことに目を向けなくなっている。「人のきずなの大切さと、未来への視点」自らの体験を通じた提言としてまとめた。これからの生き方を考える何がしかのヒントになればと願う。
無常のわかる年代の、あなたへ
発売日:2008年3月17日
定価:1,680円(税込)
発行:三五館
アートの舞台裏へ
発売日:2007年11月1日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:アートの世界を長年、内と外から見てきた体験を織り交ぜ、その時折の話題を追った現場からの報告。これから長い老後を迎える団塊の世代への参考書に、若い世代にも鑑賞のあり方についての入門書になればと思う。
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信さんの序文より)
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
内容:「本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、実地踏査にもとづいて報告されている」と山折哲雄先生が序文を寄せている。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
「ぶんかなびで知った」といえば送料無料に!!
 

 

もどる