万葉の心を後世に伝えよう

2008年9月16日号

白鳥正夫


歴史と自然景観に恵まれた
奈良県立万葉文化館

今年は『源氏物語』千年紀でしたが、それより古く1200年以上も前に編さんされたのが『万葉集』です。四季のうつろい、たぎるような相聞、身を裂く挽歌……。『万葉集』の二十巻4500首は、わが国最古の歌集であり、日本人のこころの底に生きつづける叙情の原点でもあります。数多くの歌が詠まれた奈良・大和路に奈良県立万葉文化館がオープンして、ちょうど7年になります。その館長は『万葉集』研究の第一人者の中西進先生です。『万葉集』を中心とした古代の心の豊かさを伝える「万葉みらい塾」をはじめ、社会とのパイプとなる「中西進と21世紀を生きる会」などの活動を続けています。源氏ブームの中、『万葉集』に焦点をあててみました。

ゆかりの地に拠点の万葉文化館


飛鳥池工房遺跡を取り込んだ館内

奈良県立万葉文化館は、県内各地に散在する『万葉集』ゆかりの歴史的風土や自然景観を生かした「万葉のふるさと」と位置づけ、古代文化に関する総合文化拠点として2001年9月に明日香村に開設されました。調査・研究、展示、図書・情報サービスの3つの機能を柱に活動しています。

現地は飛鳥寺や岡寺に近く、周辺に川原寺跡はじめ石舞台や亀形石造物、酒船石などが散在し、古代史が息づきます。館の敷地内にも飛鳥池工房遺跡が炉跡群復元展示されています。また庭園には万葉の歌に詠まれた日本古来の樹木や草花で構成され、各所に歌碑があり、散策を楽しめます。

館の自慢は万葉秀歌を題材に描いた平山郁夫、加山又造、片岡珠子ら著名画家の作品154点を所蔵していることです。これらの作品は随時展示されるのはもちろん企画展も催されます。10月13日までが「山口華楊と晨鳥社の今」、10月18日から11月24日までが「田中一村展」が開かれます。


万葉秀歌をテーマに描いた
日本画展示室

こうした館内を中心とした活動にとどまらず、中西館長の肝いりで力を注いでいるのが、『万葉集』の普及活動です。その一つが2003年5月から始めた「中西進の万葉みらい塾」です。館長が「万葉の歌の魅力を、未来を託す感性豊かな子供たちに出前授業を」と発想したのでした。

当時、朝日新聞社に在籍していた私も賛同し、万葉文化館の要請で朝日新聞社内で検討し、未来読者対策の一環として共催することになったのです。全国の小中学校を対象に公募したところ、学校側の費用負担が無いということもあって、多数の申し込みがあり抽選で原則として毎月一回実施、現在も継続開催中です。

「石(いわ)ばしる 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも」(志貴皇子の歌)。この和歌を三回、読み上げます。子どもたちも続きます。「これは楽しみの歌ですか、悲しみの歌ですか、怒りの歌ですか、喜びの歌なのでしょうか」と、小学生らに問いかけます。「岩の上を水がほとばしる滝。滝のそばに、今ワラビが首をもち上げた。春だ」と説明し、次第に子供たちにも喜びの気持ちが伝わっていくといった、授業風景です。


万葉集が歌われた当時の
「市」を再現した「歌の広場」

「万葉みらい塾」の一コマを紹介しましたが、その延長として館と朝日新聞社が共催して万葉集の歌をテーマにした絵画と作文を子どもたちから募る「万葉こども賞コンクール」を創設しました。絵や言葉の表現で心の創造を語ってください――との呼びかけで来年1月10日必着です。問い合わせなどは、http://www.manyo.jp/です。これに関連して、朝日新聞社では万葉集の歌をこどもたちに紹介する連載「ナカニシ先生の万葉こども塾」もスタートします。

これまでも多くの大学生やカルチャー講座の受講者たちに、『万葉集』を教えてきた館長が「いま、なぜ子どもたちに語りかけるのかを訊ねたことがあります。日ごろ「文学が最高の文化遺産だ」と主張する館長は、「感性豊かな時期にこそ親しむ意味がある」というのが持論です。これまでの授業で、中西さんは手ごたえを実感した様子で、出前授業に加えての紙面授業にも期待しています。

社会とパイプ求める新たな着想


中西進館長

ところで中西館長のことをあらためて紹介しておきます。1929年、東京都生まれで、東京大学の大学院を修了後、成城、筑波両大学の教授を経て87年に国際日本文化研究センター教授に転身。さらに姫路文学館長、大阪女子大学長、帝塚山学院理事長・学院長、京都市立芸術大学学長などを歴任しています。現在は奈良県立万葉文化館館長に加え、今年から京都市立図書館長、田辺聖子文学館長にも就任されています。

70年に『万葉集の比較文学的研究』(桜楓社刊)で日本学士院賞、97年に『源氏物語と白楽天』(岩波書店刊)で大佛次郎賞など数々の受賞され、著書は『中西進万葉論集(全8巻)』(講談社)をはじめ、『中西進著作集』(全36巻、四季社)を刊行中です。94年には皇居の宮殿で行われた歌会始の召人(めしうど)にも選ばれ、04年文化功労者、05年瑞宝重光章を受章されています。


子どもらに万葉集の面白さを教える
出前授業

先生と初めてお会いしたのは、95年に東京で開かれた東大寺文化講演会でした。朝日新聞社が後援していたためで、それ以降、お会いする機会が増え、10年を超えて交誼を得ることになったのです。大佛次郎賞受賞の祝宴を、98年に朝日新聞の先輩ら仲間らと開いたこともあります。ご夫妻を囲んだお祝いの席上「私の著作で、万葉集関連は半分ほど。これからも人際、学際、国際の三際感覚で研究を」との抱負を聞かせていただいたのでした。

それ以来、幅広い活動について相談していただけるようになりました。長年取り組んでこられた歴史シンポジウムについて、協賛の全日本空輸株式会社と協議して2001年以降、朝日新聞社で後援し紙面化するお手伝いをし、「万葉みらい塾」につながったのです。


「中西進と21世紀の会」の総会

この間、中西館長を信奉する同志の集まりとも言うべき「中西進と21世紀を生きる会」が発足して7年目を迎えました。私も発起人の一人として、準備段階から関わってきました。万葉集を始め日本文化を通して、先生の考えを理解し、自らの生き方の上に生かすと同時に、広く周囲にも伝え、未来へ向けての指針としたいとの趣旨です。文化を学ぶのではなく、文化を手段として世界を考え、把握し、自らのよりよい生き方を見いだし、後続に伝えようとの社会的意義を強調しており、広く会員を募っています。

会員は各地のカルチャー受講生らを中心にスタートしましたが、一般の方の入会も増え、現在では約200人を数え、大阪・東京・名古屋に支部があります。年会費3000円で、年1回の総会では先生と親しく懇談するほか、随時見学会や読書会、交流会などに参加できます。さらに会報誌『ふくろう』が年4回発行されています。なお「中西進と21世紀を生きる会」のHPはhttp://www.kureai.jp/owl/miraimanyou.htmで、入会申し込みも、こちらからできます。

今年の総会は9月13日、万葉文化館で開かれました。例年、私が司会進行を担当していますが、ここでも館長の講演が定番で「近ごろ考えること」と題され、約50分話されました。この中で最近の風潮に触れ道徳教育の大切さを強調し、家庭にも「心のノート」(児童に配布している冊子)の活用を唱えられました。また「生命といのちとは違います。心を大事にしてこそいのちが輝くのです」と締めくくっていました。

万葉びとに学ぶ現代人の生き方  


総会で定番の中西先生の講演

最後に私が2007年10月、大阪のリーガロイヤルホテル特別公開講座で、「万葉びとに学ぶ―現代人の生き方」と題しての講座に、私が司会をさせていただいた時の内容の一節を引用させていただきます。

白鳥 昨今、教育や家庭の問題が深刻化し、親殺しや子殺しなど日常的に凶悪犯罪が頻発し、これでもかこれでもかと言うほど時代状況が悪くなってきています。とりわけ団塊の世代が定年となる時期で、一つの過渡期かもしれませんが、隣人や友人、夫婦、親子など人と人との絆が薄れ、家庭で団欒のない暮らしが顕著です。また自然に目をやると言うことも少なく、季節感がなくなってきていると思うのです。万葉人をよくご理解されている立場から、今の社会をどう見ていらっしゃるか、その歌に関連して、現代人との関わりについてお聞きしたいと思います。    

難波人 葦火焚く屋の 煤してあれど 己が妻こそ 常めづらしさ (巻十一 二六五一番)


万葉文化館前での記念撮影

中西 大阪の人ですね。そのように煤けているけれど、俺の妻がいつも可愛いというのです。煤だらけの奥さんを「煤妻」と言うのですが、きれいに着飾った人よりも煤けている奥さんが可愛いのですね。小学校で話をするときは、この「妻」を「お母さん」に変えるのですが、「働いて汚れて煤けているお母さんと、きれいに着飾って遊んでいるお母さんとどっちがいい」と聞くのです。そうすると、子供たちは、遊んでいるお母さんはいやって、働いているお母さんが良い、と言います。「煤妻」がいいっていうのです。それを聞きますと、『万葉集』っていうのは、今も生きているなって思うのです。この感覚は、現代の子供たちにも入り込んでいるのです。『万葉集』といいますと、「難しいでしょう」とよく言われますが、そうではない。この歌もすごい作品ですが、人間の普遍性ということなんですね。古典とか現代とかではなく、どこにでも共通することなのです。『万葉集』を学ぶときは、そういうところを発掘していくことが大事だと思います。(中略)  


奈良県・今井町での野外勉強会

白鳥 人間、喜怒哀楽と言うことがありますが、微妙な妬み、ためらい、疑い、羨望など様々な感情が万葉集の中に込められているということで、現代人が失っている感性とか心情いうものを読み取れることが出来れば興味が尽きません。要は感動する心、それを先生はおっしゃっておられると思います。国際情勢や色々難しい問題がありますが、感動するというのは、生きている確認ですし、そんなに難しいことではありません。ちょっと立ち止まる、ということも大切かもしれませんね。今、我々は、その心がどうも薄らいでいるような気がします。

中西 近ごろの社会には敬いの精神が失われてきました。他を尊重するから自分も成長できるのです。学校では社会に出てすぐ役立つ実学が優先され、教養を求めて大学へ行かなくなりました。日本人の中には、自分が日本人であることを忘れている人間が少なくありません。人類の尊厳を守るという人間観も忘れています。文明の衝突が話題になっていますが、理と理がぶつかっている感じです。欧米の理に対し、アジアの情が武器になってほしいと思います。

白鳥 これからの日本人が生きてゆくべき道は?

中西 「この道」という歌があるでしょう。「ああそうだよ、お母様といつか来た道」です。日本人が歩いて行く道は、その道です。


リーガロイヤルホテルでの特別公開講座

 

しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
序 章 国境を超えて心の「家族」がいる
第一章 各界識者と「共生」を語る
第二章 変容する共産・社会主義
     世界の「共生」
第三章 ミニコミ誌『トンボの眼』から
    広がる「共生」の輪

私たちは誰しも一人では生きていけないことをわかっていながら、家族や地域、国家 や国際社会のことに目を向けなくなっている。「人のきずなの大切さと、未来への視点」自らの体験を通じた提言としてまとめた。これからの生き方を考える何がしかのヒントになればと願う。
無常のわかる年代の、あなたへ
発売日:2008年3月17日
定価:1,680円(税込)
発行:三五館
アートの舞台裏へ
発売日:2007年11月1日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:アートの世界を長年、内と外から見てきた体験を織り交ぜ、その時折の話題を追った現場からの報告。これから長い老後を迎える団塊の世代への参考書に、若い世代にも鑑賞のあり方についての入門書になればと思う。
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信さんの序文より)
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
内容:「本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、実地踏査にもとづいて報告されている」と山折哲雄先生が序文を寄せている。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
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