日常の「美」 宮脇綾子展

2008年5月20日号

白鳥正夫


寺院の伽藍をイメージした
姫路市書写の里・
美術工芸館の外観

金銀、宝石で飾られた華麗な宮廷の「美」とは対極の日常の「美」が心をなごませてくれます。宮脇綾子さんのアプリケ作品は身近な布切れを使って制作されたものです。姫路市書写の里・美術工芸館で開催中の「昭和のこころを伝える 宮脇綾子アプリケ展」(〜6月1日)には、藍染の木綿や絣、更紗などを素材として台所の野菜や果物、魚や草花など、主婦の日常をテーマにした創造あふれる作品90点が展示されています。宮脇展と言えば約12年前に「アプリケ芸術50年 宮脇綾子遺作展」の企画に関わった思い出があり、当時を振り返りながら紹介します。

40歳から始めたアプリケ創作


在りし日のアプリケ作家の
宮脇綾子さん(右)と、
美術工芸館設計した
次男の檀さん

綾子さんは1905年、東京に生まれます。父親は事業に失敗し、18歳の時に死去。幼少から貧しい生活を余儀なくされ、物を大切にする習慣が身についたのでした。夫で洋画家の晴さんとの出会いは、家の近くの日曜学校の先生の紹介です。先生が名古屋の工芸学校に赴任しますが、その学校の図案科に晴さんがいて、紹介されたのでした。

綾子さんは断続的に文通を続けていましたが、1927年に母校の教壇に立っていた晴さんのもとに、身の回り品だけを持って嫁ぎます。22歳でした。姑と親思いの一人息子の家庭で、綾子さんの貧乏に耐えてきたつつましさを買われたといいます。

戦争が終わり二男一女も育った40歳の時、「何か自分でできることを」と思い立ちます。身近にあった古裂(ふるぎれ)を材料にしたアプリケです。庭の草花や台所にあった野菜、果物や魚などをモデルに、布を裁ち、糊付けし、糸でかがる作業から、創作することの喜びを知ったのです。

平凡に過ぎてゆく日常生活の中に、生きがいを見出したのです。貧しさや悲しみを知っていたからこそ、人や物をいとおしむ心が生まれ、作品に素朴な温かさを生み出していけたのでしょう。アプリケの制作を始めて数年後、知人の勧めで初の個展を開きます。個展は評判が良く、名古屋だけでなく東京にも広がり、その作品は次第に全国にも知られるようになりました。


西宮市大谷記念美術館の
川辺雅美学芸課長の講演会

綾子さんは1995年に90歳で永眠されました。私は生前お目にかかったことはありませんが、作品をしばしば目にしていました。というのも食の月刊誌として定評のあった『あまから手帖』の表紙絵を飾っていたからです。戯れているような魚や楽しげに語りあっているような野菜や草花……。ほのぼのとしていて心温まる味わいがありました。この雑誌は、朝日新聞で私の元上司が編集長をしていたこともあって、新聞社の企画マンをしていた私は、遺作展を思いついたのでした。

「樹は年ごとに老いていくけれど、花は毎年、新しい生命を咲かせますよね」。先輩は生前、綾子さんから直に聞いた言葉を伝えてくれました。そして「宮脇作品に10年間も表紙を飾っていただいたのに休刊に追い込まれた。そして宮脇さんも亡くなってしまった。樹は枯れても、花は年ごとに新しい。遺作展をやれば、華麗な宮脇作品がよみがえって、また会える」と付け加えたのでした。『あまから手帖』は後に再刊されています。

当時、元上司の言葉を待つまでもなく、私は展覧会開催に向けて動き出したのでした。1995年秋、名古屋に住む遺族を訪ね、「ぜひ遺作展を」とお願いしたところ、「何よりの供養になる」と快く了解していただいたのでした。その時、私が座っていた居間が、宮脇さんのアトリエだったのでした。当然のことながらアプリケには、それほど広いスペースや設備が要りません。布とハサミや針、ノリがあればいいのです。


夫の宮脇晴さんの作品。
綾子さんの古希を記念して描いた
「竹林に立つ像」

何度か足を運んでいるうちに、代表作を集めるだけではなく、遺作展として、一人の庶民芸術家の生まれてきた背景も見せられないか、と考えたのでした。ちょうど宮脇家では、古くなった家を建て替える準備をしていました。このため本棚や押し入れに大切にしまってあった資料類をすべて借りることができ、作品が生まれたアトリエも記録に残し、展覧会場に再現したのでした。

遺作展は1997年春から約1年間に札幌から熊本まで15会場を巡回し約20万人に鑑賞していただいたのです。

息子の設計した美術館での展示

遺作展から10年有余、この間、遺作展実現にご協力をいただいた宮脇さんの3人のご子息も故人となってしまわれたのです。そうした折、書写の里・美術工芸館の堀澤光栄・主幹(学芸員)から一通のメールをいただいたのです。堀澤さんは昨年まで姫路市立美術館に勤めていて、新聞社にいた時、仕事での接点がありました。その文面には次のように綴られていました。

「ご無沙汰しています。(中略)最初に手がけた宮脇綾子のアプリケ展がはじまり、宮脇実保子さんなどご遺族5名が見えました。その中で、白鳥さんが一生懸命遺作展をされた時の話をうかがいました。実は当館は次男の建てた作品なのです。出来ましたらお出かけください。ぜひ、お目にかかりたいものです」とありました。


「切った玉ねぎ」

「めざし」

今回の展覧会の会場となった書写の里・美術工芸館は、綾子さんの次男である建築家の檀(まゆみ)さんが設計していたのです。書写山のふもとに寺院の伽藍をイメージし、周囲の環境と呼応した建物として、1994年7月に開館しました。設計者の檀さんの没後10年にあたる今年、アプリケ作家の母・綾子さんと、洋画家の父・晴さんの絵画1点も加え、檀さんを育んだ環境を探り、情緒あふれた昭和のこころを伝えようと企画されたのでした。

檀さんとは遺作展に絡み、作品を借用するとともに、綾子さんが親交あった女優の杉村春子さんをご一緒に文学座に訪ねたことがありました。杉村さんからいただいていた着物を羽織に仕立て直しして着用していたが、長男の奥さんの実保子さんが形見として返したいと申し出たためでした。形見を受け取り、杉村さんは「宮脇さんの作品は独創的で、ほかに類がないですね」と語られていたのが印象的でした。


「あんこう」

「赤い蟹」

「れんこん」

杉村さんは遺作展の始まった直後の97年4月に、檀さんは展覧会終了後の98年10月にそれぞれ他界されました。そのお二人に加え、長男の桂さんが逝き、昨年には長女の嶋地千瑳子も故人となられたのです。さらに遺作展で図録の制作に当たられた関係者の訃報もあり、歳月の流れを感じます。

今回の展覧会を記念して西宮市大谷記念美術館の川辺雅美学芸課長の講演会「宮脇綾子 人と作品」が催されたのに合わせ会場に駆けつけました。川辺さんは遺作展の時の監修者であり、宮脇作品を評価する第一人者です。テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演していた宮脇さんの作品と人柄に接し、1984年に西宮で「宮脇綾子アプリケ展」を企画したのでした。

川辺さんは講演で、綾子さんが一主婦からたゆみない努力で芸術作品を生み出す作家になっていく歩みを数々の写真とエピソードで紹介されました。画家であった夫の晴さんの理解もあって「ものを観察し、写生することが、布を使っての独自世界を広げるのに役立った」ことを話されていました。そして「毎日毎日休まずに、作り続けることの喜びが、見る人に感動を呼ぶ作品になった」と、強調されたのでした。


「吊った干しえび」

布切れに新しい生命を与える

今回の展覧会場は3室におよび、作品はおおよそ制作年順に展示されていました。いずれも遺族から豊田市美術館に寄贈されたものです。夫の晴さんの作品1点は、綾子さんの古希を記念して描いた「竹林に立つ像」(1975年)も特別出品されていました。


アプリケ作品が並んで
展示された会場

作品には「あ」という字の縫い取りがほどこされています。これは綾子の「あ」であり、アプリケの「あ」であり、自然のものをあっと驚く「あ」でもあり、感謝のありがとうの「あ」でもあったのです。懐かしい「あ」に再会しましたが、代表作のいくつかを、綾子さんが作品に寄せた言葉とともに紹介します。

まず「切った玉ねぎ」(1965年)は青地にタマネギの断面を取り上げた作品です。「タマネギの芽が出たのを縦に切ってみて、その切り口の面白さに引かれました。作っているうちに、内部にすき間ができて、また面白さが増し、同時にその精力にも感じいりました」とあります。

一転、「めざし」(1975年)は赤地に表現されています。「石油ストーブの芯の使い古しで作りました。この世の中に廃物はなんにもないと私はいつも思っています。藁はイワシに刺してあった本物です」とあります。

「あんこう」(1975年)は絣地の上に大きな一匹が泳いでいます。「アンコウは、もともとグロテスクな魚ですが、形にこだわらずに、大好きなユーモアや遊びのこころを包んでいるうち、こんな姿になりました」と記されています。

「赤い蟹」(1981年)は、黒と赤の2色で蟹の姿が鮮やかに表現されています。綾子さんは「布を探し、五月幟の端切れを見つけ、一気に仕上げたものです。モデルと布と私の気持ちがいったいとなったときは、最高の喜びです」と綴られています。


美術工芸館に常設されている工房

これらの作品に関し、檀さんは生前、幼いころの思い出をいくつか話してくれました。「食卓に置かれたメロンを新鮮なうちに食わしてもらえなかった。まず父が写生にした後、母がアプリケにするのですから」「くず屋のおばさんが、集めた布を洗濯しアイロンをかけて持ち込んでくるんですからどんどんたまりましたよ。押し入れを開けると、どっと布が落ちてきたこともありましたよ」

その檀さんが設計した美術館での今回の展覧会は、綾子さんにとってどれほどうれしいことでしょうか。生活の中の身近な草花や野菜、魚などを題材に創作をし続けた綾子さんのアプリケ作品には、時代を経ても多くの人の共感を呼ぶ魅力があります。

綾子さんが日課のように取り組んでいた、はり絵や色紙日記なども展示されていました。はり絵には水彩画や文章も添えられていますが、1985年7月14日のはり絵日記には以下のような文章が綴られています。

毎日毎日 あなたの遺影の前で 一人になると泣いています 「お父さん!戻って来てー」と (中略) 私の出来上がった作品を誰よりも先に あなたに見せました 「いいのが出来たね」と言って下さった あの声、あの言葉を もう一度聞きたいです。

 

しらとり・まさお
ジャーナリスト、朝日新聞社前企画委員。1944年、愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業後、日刊工業新聞社編集局を経て、1970年に朝日新聞社編集局に入社。広島、和歌山両支局で記者をした後、大阪本社整理部員。1989年に鳥取支局長、1991年に金沢支局長、1993年に大阪企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を務める。編著書に、『アートへの招待状』(梧桐書院) 『大人の旅」心得帖』 『「文化」は生きる「力」だ』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』『日本海の夕陽』(いずれも東方出版)、図録『山本容子の美術遊園地』『西遊記のシルクロード 三蔵法師の道』『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(いずれも朝日新聞社)などがある。

新刊
序 章 国境を超えて心の「家族」がいる
第一章 各界識者と「共生」を語る
第二章 変容する共産・社会主義
     世界の「共生」
第三章 ミニコミ誌『トンボの眼』から
    広がる「共生」の輪

私たちは誰しも一人では生きていけないことをわかっていながら、家族や地域、国家 や国際社会のことに目を向けなくなっている。「人のきずなの大切さと、未来への視点」自らの体験を通じた提言としてまとめた。これからの生き方を考える何がしかのヒントになればと願う。
無常のわかる年代の、あなたへ
発売日:2008年3月17日
定価:1,680円(税込)
発行:三五館
アートの舞台裏へ
発売日:2007年11月1日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:アートの世界を長年、内と外から見てきた体験を織り交ぜ、その時折の話題を追った現場からの報告。これから長い老後を迎える団塊の世代への参考書に、若い世代にも鑑賞のあり方についての入門書になればと思う。
アートへの招待状
発売日:2005年12月20日
定価:1,800円(税込)
発行:梧桐書院
内容:本書を通じて白鳥さんが強調するのは「美術を主体的に受け止める」という、鑑賞者の役割の重要性である。なぜなら「どんな対象に興味を感じ、豊かな時を過ごすかは、見る者自身の心の問題だ」からである。
(木村重信さんの序文より)
「大人の旅」心得帖
発売日:2004年12月1日
定価:本体1,300円+税
発行:三五館
内容:「智が満ち、歓びの原動力となるそんな旅を考えませんか。」
高齢化社会のいま、生涯をかけてそれぞれの「旅」を探してほしい。世界各地の体験談に、中西進先生が序文を寄せている。
「文化」は生きる「力」だ!
発売日:2003年11月19日
定価:本体1400円+税
発行:三五館
内容:50歳を前にして企画マンを命じられた新聞人が、10年間で体感し発見した、本当の「文化」のかたちを探る。平山郁夫画伯らの文化財保存活動など幅広い「文化」のテーマを綴る。
夢をつむぐ人々
発売日:2002年7月5日
定価:本体1,500円+税
発行:東方出版
内容:新藤兼人、中野美代子、平山郁夫など、筆者が仕事を通じて出会った「よき人」たちの生き方、エピソードから、ともにつむいだ夢を振り返るエッセイ集。
夢追いびとのための不安と決断
発売日:2006年4月24日
定価:1,400円+税
発行:三五館
内容:「本書には、日本列島の各地でくり広げられている地道な地域再興の物語が、実地踏査にもとづいて報告されている」と山折哲雄先生が序文を寄せている。

◆本の購入に関するお問い合わせ先
三五館(03−3226−0035) http://www.sangokan.com/
東方出版(06−6257−3921)http://www.tohoshuppan.co.jp/
「ぶんかなびで知った」といえば送料無料に!!
 

 

もどる