「秘(まるひ)の学習書」 藤嶽彰英


 いい宿での話だ。「ここではどんな社員教育・訓辞をしておられますか」と支配人に聞いた。「うちは一切致しておりません」意外である。それでこんなに良くできるとは。すると、またおっしゃる。「そのかわり、世界一流のお客様にお泊まり戴くよう懸命の努力をしております。私は無論、幹部がいかに教えても、なかなか聞いてくれません。しかし一流の感性やハート、教養・知性を備えた作家、アーチストなど一流の美的感覚をお持ちの方々がそれとなく言われることは実によく聞きます。尊敬するお客様に気に入られるよう自分であれこれ工夫もします。これ以上の学習書はございません」「じゃあ、お金を貰った客に従業員教育をして貰っている?」「そう、そのとおり」
 うまい話だ。いい客がいい従業員を育てる。もっとも、その宿には長年つちかわれてきた風格や誇り、そして心地よく醸成された伝統文化の蓄積があるからだろう。つまり、いいお客(お金持ちばかりじゃない)に来て貰い、儲けながら教育して貰うという一挙両得の循環だ。
 宿に限るまい。都市や家庭だってそうじゃないか。この国はいまだにバブル時代のモノサシを用いて滑稽な指針を述べている。そういう都市や企業はキリモミしながら墜落してゆく。冷酷だが、それが国際社会のおきてだ。
 洗練された客の飾り気無いおしゃべり、上質のユーモアや鋭いジョーク、おしゃれなファッションや身のこなし。上等の客が都市や家族に与える“カルチャー・ショック”は経済効果何%とか入込数などでは計りきれない価値を生みだす。「数」と「結果」が全ての政治・経済のモノサシで、到底計りきれない文化や観光を計ろうとする幼稚で乱暴な発想から一刻も早く卒業しよう。うさん臭い既成肥大観光地の失墜、その「無残な実現」をしっかりと見つめよう。「観光地」という名の定置網を、賢明な魚は避けてゆく。
 「大阪でなければ…」と訪れてくれる魅力とイメージ創りこそ急務である。何処でもいいお茶濁しの客は他所に行って貰ってよい。現在の大阪にそれだけの主張があるか。府・市民はまず府・市民としてすることをちゃんとしているか。せめても自宅の50メートル四方をきれいに清掃しているか。まず自助・共助しかる後に公助である。
 いいホテルにゆくと、ロビーに練達のコンサルジュ(相談役)がいる。たいていは熟年のホテルマンで、現場を卒業してぶらぶらしているようで、実は百戦錬磨のプロだ。「今夜こんな店に行きたいが何処がいいか」「紫式部が初恋をたのは何処だったのか」「明日の航空券をどうしても欲しい」といった相談・困ったことに親身になって応えてくれる。処理能力抜群の救世主である。どの程度のコンサルジュがいるかどうかで、そのホテルが一流かどうかの分岐点となる。全て承知していながら、出過ぎない節度を保ちつつ、客の望んでいる酒や話題を提供する絶妙のバーテンダーと似ている。そういう“生きた文化財”(知恵者)が町の随所に悠然とくらしていて、みんなから大事にされている。そんな大阪の町にいい客やいい友が何度もやって来て「元気」を得て帰ってゆく。帰ってからも各所でその話をしてくれる。そういう優秀なビジターの来訪で、いい町・大阪がいよいよ磨かれてゆくのである。


イラスト:中原暁子

「Osakaあらかると」VOL.46(2002年Spring) より

 

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